チキチキ!火種だらけの映画評

映画のネタバレ記事が多いと思います。私の映画の趣味をやさしい人は“濃い”といいます。

ビンラディンを殺すことに命をかけた女の話「ゼロ・ダーク・サーティ」をべた褒めしたい!

 

非常に素晴らしい映画、誠実で作り手の志の高さが伺える。自分もこういう志の高さを持ちたいと思う。

 


映画『ゼロ・ダーク・サーティ』予告編 - YouTube


■あらすじ
「9.11」アメリカ合衆国に悪意が襲来した。その悪意の送り主、ビンラディンは、その数ヵ月後に姿を消した。

CIAの必死の捜索が実り、11年 5月にビンラディンが殺害される。

世界は知らない。ビンラディンの潜伏先を突き止めたのがCIA女性捜査官だということを。世界は知らない。彼女の葛藤 を。


■製作者たち
ハート・ロッカー」のアカデミー賞監督キャサリン・ピグローは僕が尊敬する監督の一人だ。

もしかしたら、彼女を「タイタニック」のジェームズ・ キャメロンの元奥さんと認識している人もいるかもしれない。しかしその認識は今日、新たにしたほうがいい。

ジェームズ・キャメロンをしても「自分より才能 は上」と言わしめる存在がキャサリン・ピグローだからだ。
彼女が描く人物はある種の狂気を帯びた存在だ。それはキャサリン・ピグロー自身が「映画監督」の仕事に強い信念を持っているからだろう。

彼女の生 き様がまるで、彼女が描く登場人物に憑依し、登場人物を通じて訴えかけてくる。「私にはこれしかないんだ」。これはキャサリン・ピグローの心の叫びだ。


ハート・ロッカー」からキャサリン・ピグローとコンビを組んだ脚本家のマーク・ボールはもともと世界を股に駆けるジャーナリストだ。今作「ゼロダーク・サーティ」の徹底的にリアルな描写も彼の取材の賜物だろう。
     ◇
「ゼロダーク・サーティ」は史実に忠実だ。

しかし、劇映画である。実際は数人のCIA職員で行われたことを映画のなかでは一人に集約するなど、映 画というメディアに載せるための手段としてフィクションを使っているに過ぎない。

8章に分かれたその体裁は戦場ルポタージュのようであり、紙の本を読んで いるような感覚に襲われる。

ドキュメンタリーなのか、劇映画なのか、映画なのか、本なのか、非常に定義が難しい作品であり、そこにも挑戦を感じる。

 

■マヤという架空のCIA職員
何人ものCIA職員に取材し、彼らがビンラディンの潜伏先を突き止めるまでの道のりを、マヤという架空の人物(モデルはいると思われるが、詳しく はパンフレットでも書かれていない。)に集約している。CIA職員の狂気が見事に描かれている。

ビンラディンを見つけるという目的のために、彼らの人間性はどんどん失われていく。

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自爆テロに巻き込まれ命を落とすかもしれない仕事も、寝る間を惜しんでデータを分析するのも、拷問をして情報を引き出す汚れ仕事も、末端の仕事。

そんな末端のCIA職員が求めるのはアメリカ大統領が、政治的判断するために必要な情報だ。

彼らが情報を見落とせばテロが起きる。誤情報踊らされれば戦争が起こる。

「9.11」「イラク戦争」がまさにそうだ。

 

「イラクには核兵器がある」

彼らがその誤情報を掴まされたから、戦争が起こったのだ。

 

マヤはパキスタン 支局に到着した当初は優秀だが頼りない存在だった。仲間を失い、自分自身の人間性を犠牲にしながら、彼女はどんどん狂気を帯びていく。

 

「他人を気遣う余裕 がない」

人間としての感情はどんどん切り捨てていく。ビンラディンは用心深く、一切の通信機器を使わない。捜索は困難を極め、彼女がパキスタン入りしてか ら10年の月日が流れた。


■「不謹慎」「オバマ賛歌」「拷問容認」との戦い

ビンラディン暗殺作戦の撮影は「不謹慎」との戦いでもあった。

「不謹慎」に打ち勝つためにキャサリン・ピグローはリアルを求めた。

細かくカットを 割って撮影したならば、どうしても派手な戦闘シーン「見せ場」を作ってしまう。そうならないために彼女は実際の作戦で行なわれた行動を通しで2回、訓練を 積んだ俳優達に行なわせた。

 

さらに月のない夜を選んだ。映像は全て暗視カメラを通した映像だ。その場のリアルを追求し、どう見せるかを考え抜き実行する。 キャサリン・ピグローの手腕が伺える。


この映画は「オバマ賛歌」ではない。

政治判断を賛美する映画ではない。

そもそも何も賛美していない。現場が行なった作戦が忠実に描かれるだけだ。

そして、その中に「拷問」がある。決して、容認しているわけではない。拷問をオバマが禁止したことで、アメリカ国民の命を守る情報を得ることが一時的に難 しくなったということを描いただけだ。

 

■まとめ

何故、人は映画を観るのか。その一つの答えがこの映画にあると思えた。

自分が知らない事実、知ろうともしなかった事実を「体験」できる

実際に体験できないことを本を読むよりリアルに「体験」できる。それが優れた映画の僕らにもたらすものの一つだ。そして、それを求めるために僕らは映画を観る。

「ゼロ・ダーク・サーティ」には僕らが求める「体験」がある。

 

この映画を観るまで、CIAの仕事についてなんて考えたことはなかった。いいイメージなんて持ったことはなかった。

この映画を観て気付いた。至極当たり前なこと。

「この人達(CIA)って僕らと同じ人間だ」ということに。それは「体験」しなければわからないことだ。

 

「何かを成し遂げたい」「そのために何を犠牲にしてもいい」「狂っている、間違っていると言われても、私はこう生きるんだ」

私はそう考える人間に魅力を感じる。生きるってそういうことでしょとさえ思っている。そういう人たちがCIAにいて、一生懸命働いているんだよ。

キャサリン・ピグローはたぶんそう言いたいのだと思う。

 

僕はそう考える人は仲間だと思えるし、むしろ大好きだ。

 

知らないで単純に非難するのは簡単だ。

 

思っているよりも、CIAの仕事は難しいし、CIA職員は人間だった。

それを教えてくれた「ゼロ・ダーク・サーティ」に本当に敬意を表したい。