チキチキ!火種だらけの映画評

映画のネタバレ記事が多いと思います。私の映画の趣味をやさしい人は“濃い”といいます。

ルーマニア映画「汚れなき祈り」は、独裁体制が崩壊した後の北朝鮮を描いている(かもしれない)映画だ。


『汚れなき祈り』予告編 - YouTube

 

■あらすじ ―ルーマニア社会の問題点を交え―

この映画はドイツに暮らしていたアリーナが、一時的にルーマニアに帰郷するところから始まる。アリーナを迎えるのは、彼女の孤児院での親友のヴォイキツァ。ヴォイキツァは、街から少し離れた丘の上の教会で修道女になっていた。

     

この映画の舞台となるこの修道院は、驚くほど質素だ。

電気は通っておらず、夜はろうそくの灯りが頼りだ。もちろん暖房などはなく、冬は室内であっても吐く息が白くなるほどの寒さである。

このような厳しい環境のなかで修道女たちは、神の愛に答えるために毎日祈りをささげていた。ヴォイキツァもその一人である。

     

アリーナの願いは唯ひとつ。自由の国、ドイツでヴォイキツァと共に暮らすことである。

しかし、ヴォイキツァはアリーナのその願いをかなえることはできない。彼女は神にその身を捧げた存在である。得体の知れない存在にヴォイキツァを奪われてしまった。アリーナはそう思うようになる。これが後にアリーナが心を病んでいくキッカケとなる。

     ◇

1960~1980年代のルーマニアは、北朝鮮のような独裁体制をとっていた。その独裁政権の政策はこの映画の舞台となった2005年にも大きな影響を与えている。

人工中絶の禁止と離婚の禁止。その政策の目的は経済力強化のための人口増加だった。実際に人口は増加したが、新たな問題が発生した。育児放棄によって孤児が増加したのだ。さらに急な人口増加に医療が追いつかず、まともな医療を受けることができなくなった。

人々の心の在り方、人間関係にも、独裁政権がもたらした影響は大きい。独裁者チャウシェスクは国民に個人崇拝を強制した。それは教会を禁止するなど徹底されたものだった。独裁者チャウシェスクは、教会を禁止するなど組織の徹底的に横の繋がりを絶った。社会をバラバラにすることで、独裁政権を生きながらえさせた。横のつながりを絶つ方法は簡単だ。国民をお互いに見張らせればいい。村八分だ。こうして国民は相互不信と、他者への無関心を募らせていった。

 

心の支えとして信仰が存在する。ヴォイキツァは信仰と友人との間で揺れ動く。ヴォイキツァの生き方はルーマニアの現状を浮き彫りにする。彼女は孤児院で育った。そのなかで相互不信と、他者への無関心というルーマニアの現状を目の当たりにした。現実に失望し信仰の道を歩む。ヴォイキツァのこの生き方は、ルーマニアの若者たちの精神を体現しているのかもしれない。社会から目を背け、盲目的に神に祈る。彼女は満たされていた。孤児院の親友、アリーナがやってくるまでは。

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 ヴォイキツァとドイツで暮らせない。アリーナの中で何かが壊れた。彼女はどうにもできない感情をあらわに、自分を傷つける。止めようとする修道女もお構いなしに暴れ続ける彼女は取り押さえられ、病院に運ばれた。彼女は統合失調症と診断される。

 

■「間違わない」という傲慢(以下ネタバレあり)

 この映画は2005年に起こった神父による殺人事件を基に構成されたフィクションだ。「悪魔祓い」を行なった結果、人が死んだ。「汚れなき祈り」と同じような題材を扱った映画に「エミリー・ローズ」がある。この二つの映画の「悪魔祓い」の描き方は全く違う。

 

エミリー・ローズ」は「悪魔祓い」に肯定的だ。この映画では「悪魔祓い」を行ない、エミリー・ローズという女性の命を奪った容疑をかけられているムーア神父の法廷劇が描かれる。法廷のなかでムーア神父がいかに慎重に「悪魔祓い」を行ったかが明らかになる。彼は信頼できる医者と両親の立会いのもとに「悪魔祓い」を行なった。この映画の元になった事件でも「悪魔祓い」の様子は全て録音され、何枚かの写真も存在している。

 

科学では説明できない何か(悪魔)に立ち向かうためには、信仰は必要だ。

そう信じる一方でムーア神父は知っている。自分が完璧でないことを。自分は間違うかもしれない。「悪魔祓い」は最良に思えるが絶対ではない。信仰だけでは人は救えないという事実を。その謙虚さが「エミリー・ローズ」の「悪魔祓い」を肯定的なものとした。

 

「汚れなき祈り」の「悪魔祓い」は明らかに否定的な描かれ方をしている。そもそも、この修道院は何か胡散臭い。修道女が祈るのは、見たくない現実から目を背けるため。神父も理想と現実の乖離に歯がゆさを感じている。

敬虔なクリスチャンとは彼らのことをいうのだろう。キリスト教の教えを守り、最低限の生活を送る。それは同時に、彼らの中の優先順位を狂わせていく。

彼らにとって自分の価値観が絶対なのである。それ以外は神聖なものを汚すとして受け入れない。

修道女たちは神父を慕うがゆえに「神父様が間違うはずがない」という盲目的になってしまっていた。神父も信者達の思いに答えねばならないという気持ちが先行し、自分の未熟さから目を逸らし続けている。神父は30歳前後、人の人生を語るにも、信仰を語るにも未熟である。監督のクリスティアン・ムシジウは、そんな彼らの「傲慢さ」を静かに指摘する。

 

■「変わらないということ」と「その副作用」と「副作用への処方箋」

《変わらないということ》 

変わらないことは重要だ。

この「汚れなき祈り」に登場する修道院の神父にはそういった想いがあったのだろう。映画の中で神父は「同性愛結婚、離婚、中絶」と世間の怠惰(とされるもの)を嘆く。

 彼が属するのは「ルーマニア正教会」。

 キリスト正教会の一つで「使徒達から始まった教会のありかたを、唯一正しく受け継いできた教会」を自負している。聖書を重んじ、受け継がれた伝承を大事にし「教会を形成していく人々の生きた体験の記憶」を守り続けている。この映画の中でも描かれているように祈祷や儀式などに対し簡略化などの恣意的な変更は認められない。

 

 「同性愛結婚、離婚、中絶」に対して嘆くこの修道院の神父は「ルーマニア正教」の「教会を形成していく人々の生きた体験の記憶」を守ろうという強い意志を感じる。キリスト教の創始者たちが、キリスト教を創り上げていた時に考えていたこと、やっていたことを守ろう。まさしく「正教会」の思想の本質を彼は体現している。

 

《その副作用》

 しかし、この神父や修道女たちは世間とどんどん乖離していく。

 ヴォイキツァがドイツに行く書類を申請する場面では、職員が妻と愛人が呪いで夫を呪い会う世間話をしている。

 病院ではベッドの回転数を上げるために適当な診察が行なわれる。救急隊員が未熟、そもそも救急車が来ない。

 神父を逮捕した警官達は、深刻な事態にある神父や修道女を気にも留めず、母親を刺した息子が死体写真をネットに上げた話をしている。

 国民の相互不信と、他者への無関心。独裁政権の置き土産だ。

 

壊れてしまった世間から目を背ける修道女。そんな世間に苦言を呈しながらも、具体的な解決に動き出すわけでもない神父。それは「ルーマニア正教会」と世間の乖離を暗に示唆している。

そんな神父は、アリーナとヴォイキツァを追い出すことで、修道院の平穏を守ろうとした。

「伝統を守り、変化しない」ことは大切だ。しかし、それには副作用が生じる。「伝統を守り、変化しない」という目的を共有することの出来ない人間は、締め出されてしまう。アリーナとヴォイキツァ、彼女達こそ救いを求めているのに。

 

《副作用への処方箋》

平田オリザ氏が中心となって取り組まれている「ロボット演劇」。

芸術の最先端だ。

「ロボット演劇」を行なうにあたって最も参考になったことは何かと問われると平田オリザは「文楽だ」と答える。

文楽とは大阪発祥の伝統芸能。近松門左衛門などが有名な人形浄瑠璃の伝統を今も寸分違わず受け継いでいる。文楽は基礎研究だ。その基礎研究があるからロボット演劇ができた。」平田オリザはそう続ける。

 

大阪十三の「シアターセブン」で私は平田オリザ氏の話を聞いた。かなり要約したがこういう趣旨の話をしていたと思う。

何故突然この話をしたのかというと、この話がアリーナとヴォイキツァなど、救いを求めているのに救われない人を救うヒントになるのかもと考えたからだ。

 

文楽は「伝統を守り、変化しない」。何故なら変えることで失われるものが多いと考えるから。この部分は「ルーマニア正教会」の考え方に近いものがあると思う。

 

文楽と「ルーマニア正教会」の違いを一つ挙げるならば、「最先端を認めるかどうか」である。文楽平田オリザが主導する「ロボット演劇」という最先端を認め、知識を共有した。この映画はルーマニア正教会」にはその姿勢はないと指摘しているように思える。

 

しかし、今こそ、その姿勢が「ルーマニア正教会」にも必要なのではないだろうか。

守り続けた伝統を壊れてしまった世間に伝え、アリーナとヴォイキツァが住みやすい世間にする。これが「ルーマニア正教会」の役割ではないのか。

伝統を守り続けることは大切だ。そしてそれを守るものは、どの伝統を今の時代にどう役立てることが出来るかを問わねばならないと私は思う。

 

■最後に

この話は決して、遠い国の話ではない。過去のルーマニアと同じような独裁体制国家である隣国、北朝鮮が崩壊した後に起こりうることなのである。それを忘れないでほしい。