チキチキ!火種だらけの映画評

映画のネタバレ記事が多いと思います。私の映画の趣味をやさしい人は“濃い”といいます。

ジャンプの異端漫画「バクマン。」が、ジャンプ王道映画「バクマン。」なってた件(褒めてる)

あらすじ

優れた画力を持ちながら将来の展望もなく毎日を過ごしていた高校生の真城最高佐藤健)は、漫画原作家を志す高木秋人神木隆之介)から一緒に漫画家になろうと誘われる。当初は拒否していたものの声優志望のクラスメート亜豆美保への恋心をきっかけに、最高はプロの漫画家になることを決意。コンビを組んだ最高と秋人は週刊少年ジャンプ連載を目標に日々奮闘するが……。シネマトゥデイより〉

 

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■全20巻の漫画を120分に

 

今回の「バクマン。」の映画化にあたって一番大きな課題は何か。 

それはいかに全20巻の漫画を120分に纏めるのかという点である。 

 

同じジャンプ漫画原作である「るろうに剣心」は3部に別け、物理的に合計408分という時間を稼ぐという作戦に出た。 

 

結果、1部目で主要登場人物紹介、2部目で最強の敵、志々雄の登場、3部目でクライマックスと、3部作それぞれに「るろうに剣心」に必要な要素を分散することが出来、見事、原作ファンも満足できる作品として成功を収めることができた。 

 

今回の「バクマン。」はどうだろう。 

蓋を開けてみると驚いた。

原作「バクマン。」の大きな要素であった「恋愛漫画」としての要素がまるっとなくなっていた。 

 

高木秋人のフィアンセである見吉香耶は登場せず、平丸一也と中井巧朗が心を寄せる蒼樹紅は影もかたちもない。 

そして、何より、真城最高高木秋人、ふたりのペンネームが亜城木夢叶(亜豆と真城と高木の夢を叶える)ではないのだ。 

 

なんとういうことだ。大根監督は「バクマン。」という漫画を120分に纏めるために恋愛要素の一切をカットし、映画「バクマン。」を真城と高木が、友情、努力の果てに勝利を掴むジャンプの王道のストーリーに仕立て直したのだ。 

 

恋愛要素の一切をカットと言ったが、そう言うとウソになる。 

亜豆美保はいる。真城は亜豆美保に恋し、亜豆美保に夢中になり、亜豆美保を描き続ける。 

亜豆美保も真城を思い、彼の漫画がもしアニメ化し、亜豆がヒロインの声をあてたら結婚する、その約束は映画にも存在する。

 

原作といっしょだ。やったー。そうじゃないか恋愛要素あるじゃないか!

 

でも違う、これは原作で描かれた「異常なまでのピュアな純愛」とは違う。

二人の夢が叶うまで、結婚するまでは決して会わない、電話をするのも、よっぽどの事があったときだけ。

それとは全く違う。

 

あくまで映画の亜豆美保は、真城が漫画を描く原動力でしかなくなってしまっているのである。

 

 

この映画を観ていて一番の衝撃は真城が亜豆美保にフラれることだろう。

真城が一番辛いときに、亜豆美保は「先に行くから」と真城が描いた漫画のセリフを引用してフる。酷い話だ。そう、決して現実の亜豆美保は「待って」くれなかった。 

 

「待ってる」 

そう真城に最後に伝えたのはいったい誰だろうか。 

芸術ってそういうことだろう。ニュー・シネマ・パラダイスよろしく失うから人はものを創るのだ。 

 

映画版「バクマン。」のヒロイン亜豆美保は、真城が描く「ジャンプ」漫画の世界、虚構世界のミューズなのだ。

 

映画版で、真城の叔父である川口たろうは「おれの恋人はマンガや!!」を地でいく生き様を見せている。

この部分も原作から変更された部分である。

 

原作での川口たろうは、亜豆美保の母親との叶わなかった大恋愛を背負っている。

その叶わなかった大恋愛のリベンジを真城が受け継ぐのが漫画版「バクマン。」のひとつの軸である。

 

しかし、映画版では「恋愛要素」に方向転換を加えたため、川口たろうから真城へ受け継がれるものは、「おれの恋人はマンガや!!」精神、ジャンプへのリベンジに絞っている。この辺も抜かりない。

 

まとめるとこうだ。

 

映画版「バクマン。」は原作にあった「異常なまでのピュアな純愛」を、苦い青春映画のように改変した。

その青春の苦さが、友情、努力の果てに勝利に収めるジャンプ王道ストーリーの原動力のひとつに収斂された。

結果、語るべきものを絞りながら物語の密度を高め、さらに上映時間を大幅に短縮された。

 

これはすごい。漫画原作からの映画化の理想じゃないか。

 

■問題点:1

 

漫画原作から映画化への理想に思えた「バクマン。」にも問題点がある。

中盤、真城がトイレで倒れるシーン。

トイレで倒れる音を聞いた高木が「サイコー…?」と真城に声をかける。

 

このシーンで妙な違和感に私は襲われたのだ。

「あれ?今までサイコー、シュージンって呼び合ってたっけ?」

この後、真城も高木をシュージンと呼ぶようになる。

 

原作の「バクマン。」では真城最高をサイコー、高木秋人をシュージン、彼らの名前を音読し、あだ名として呼び合っている。確か1巻で高木がそうすることを提案するコマがある。

 

一方、映画では、そういうシーンはないのだ。

気になったので、もう一度観て確認したから間違いない。

 

もしかしたら、真城と高木の関係性があだ名で呼び合うほどに深まったことを表現しているのかもしれないが、いささかその流れがシームレスすぎやしないか。そもそも原作を知らないとサイコー、シュージンと言われても何のこっちゃわからないのではないだろうか。

 

だから私は思うのである。

 

真城最高をサイコー、高木秋人をシュージンと呼び合うことを決めるシーン、いりませんか?

と。

 

亜豆美保との大恋愛の方向転換の影響で、ふたりのペンネームが亜城木夢叶(亜豆と真城と高木の夢を叶える)でなくなったのだから、そのシーンこそが真城と高木の「ふたりでひとり」感を出す為にも重要シーンだと思うのだが。

 

なぜ、真城最高をサイコー、高木秋人をシュージンと呼び合うことを決めるシーンがないのか。

 

■問題点:2

 

亜豆美保は声優の仕事をするために、芸能活動を禁止している高校をやめた。

あっれれー、おかしいぞー、真城と高木も同じ高校だぞー。

 

そう、何で、亜豆美保は声優業で高校をやめなきゃいけないのに、真城と高木は漫画を高校に通いながら本名で書き続けているのか。つーか、授業中にネームきってんじゃん。

 

ちょっとここはご都合主義すぎるんじゃないんですかね。

 

■問題点:3

 

映画のラスト、これから彼らが描くであろうキャラクター達を黒板アートで表現する。

素晴らしい原作ファンサービスだ。 

しかし、それはどうだろうか。 

 

実はこの映画は観ている人に誤解を与えかねない部分がある。

この映画の中では、漫画を物理的に描く苦しみは描いているが、漫画を産む苦しみはそれほど描かれてない。

高木はわりとポンポン話を思いついている、ように見える。

 

もちろんこれは描くのに苦労するのに比べて、物語を思いつくのに苦労するのは絵的超地味という映画としての制約があるからである。

 

しかし、これはひとつ間違えれば、原作者軽視に捉えられかねない。物語やキャラクターを作るのって大変なんだぞ! 

 

そこに来て最後の黒板アートだ。 

高木と真城はポンポンと未来自らが描く作品を思いつき、黒板に描く。

 

いやいや、それはどうだろうか。

 

この黒板アートが先ほど述べた欠陥点が芋づる式に掘り起こしていく。

原作を読んでいると、彼らがいかに苦しんで、作品を生み出していたか知っているから、より腹が立つ。

 

最後の黒板アートはあくまで、次の「疑探偵TRAP」もしくは「PCP -完全犯罪党-」の一作を描くくらいでよかったんじゃないか。 

 

彼らの作品はまだまだこれから、彼らの次回作にご期待ください、でよかったと思うんだけど。

 

これ全部、この段階で描かれたら興ざめだよ。 

 

 

とまあ、問題点も確かにある。確かにあるけど、純粋に「ジャンプ式」青春映画として楽しいと思えたし、漫画を描くシーンや思いつくシーンは映像としてとてもアガったので、観に行く価値は間違いなくあります。 

 

劇場版「バクマン。」是非、お誘い合わせの上、映画館でご鑑賞ください。