チキチキ!火種だらけの映画評

映画のネタバレ記事が多いと思います。私の映画の趣味をやさしい人は“濃い”といいます。

「グランド・ブタペスト・ホテル」は物語で感動させる気がないという件

グランド・ブタペスト・ホテルを鑑賞して参りました。

 


ウェス・アンダーソン監督作『グランド・ブダペスト・ホテル』予告編 - YouTube

 

ツヴァイクとかの話は下の二つが詳しいので一切言及していません。

 

町山智浩氏批評

http://miyearnzzlabo.com/archives/18434

 

宇多丸氏批評

https://www.youtube.com/watch?v=upRwtuPy39w

 

蓮實重彦氏がユリイカのでの対談でこの映画を「高速のドミノ倒しを見ているよう」と表現していましたが、その表現が一番しっくりきます。

確かにこの映画は一応サスペンスの体裁を取っているのですが、犯人は直ぐわかるし、謎解きも一切無いし、さらに言えば登場人物が葛藤したりしないし、言っちゃえば皆ほとんど無表情。

ただただ一本道に、行き当たりばったりに物語が進んでいくんですね。

 

登場人物の心理的葛藤、どんでん返しの結末、意外な犯人などなど

 

そんな脚本的な面白さではなく、映画的なカットの連なりで面白くしているのが、この映画の凄いところだと思います。

 

「このウェスアンダーソンて人、物語で僕たちを感動させる気がない!」

 

だから、たぶんこの映画は話の本筋やセリフ以外、カメラワークやシーンのつなぎ方、登場人物の動きで、シーンの特性や登場人物の感情を物語っているんじゃないかなと思います。

 

僕がこの映画を観て気づいた、上記のようなこの映画の特徴を語っていきたいと思います。

 

人物紹介の動画を貼っときますね。


『グランド・ブダペスト・ホテル』特別動画 "キャラクター紹介" - YouTube

 

■感情をカメラワークで語る例

 

若き日の作家とムスタファが風呂場で語るシーン。

あそこが面白いのは引きの絵と顔のアップの使い分けで、被写体の感情をあぶり出している点だと思います。

作家とムスタファの会話が確信に近づくにつれ、顔のアップの切り返しになるのですが、突然作家の引きの絵が挿入され、作家が「え!?」と思った事を表現されています。

 

■シーンのつなぎ方で物語をミスリード

若き日のゼロの恋人アガサが殺されたのではないかと一瞬ドキッとさせられるシーンがあります。

誰もがギョッとさせられるセルジュ・Xの姉の首を警部が籠から取り出すシーン。

思い出して頂きたいのですが、あの前のシーンはアガサが自分の部屋で何か外を気になり、最後は屋根から首だけを出すシーンです。

このようなシーンのつながりのせいで、一瞬「まさかアガサが…」と思わされたのですが、このようにシーンの順番で物語をミスリードすることで観客のハラハラドキドキを持続させることに成功しています。

 

 

■左から右の映画文法

この映画の面白いところは移動のカットが多く、多くの移動カットで登場人物やカメラが左から右に移動しているというところです。

英語文化圏など、横書き文化の国では、本を左から右に読み進めていくのになれているので、映画の場合でも左から右に進行する方が心地よく観れる、という映画文法が使われているのだと思います。

 

「左から右に移動している」ということを基本に考えて、この映画を視るとより深くこの映画を観る事ができます。

 

で、その基本を踏まえまして3回ほどこの映画を観たところ、映画の進行方向とは逆、右から左に移動するシーンが何カ所かあり、そのシーンが特別な意味をもっていることに気づきました。

 

これから「右から左に移動する」シーンを抜き出してみましょう。

 

■過去へ

この映画は現在のオールド・ルッツ墓地に少女が墓参りに来るところから始まります。

少女は左からフレームインし、墓地に入っていきます。

すると、彼女は、早速右から左へと移動し始めます。さっそく左から右に移動する法則が破られたのですが、少女の行き着く先はとある作家の墓です。少女が墓にたどり着くと少女が手に持っていた本の作者の時代へと時間が飛びます。我々は少女の意思を媒介に過去に飛んだのです。

 

進行方向は左から右という映画文法を逆手に使い「現代から過去へ」ということを表現しているのです。

 

■オフビートギャグ

 

「左から右」の映画文法を逆手に使うことで映画に緩急が生まれ、その緩急がギャグになります。

例えば、ゼロが刑務所にいるグスタフの面会に行くシーン。刑務所の大きな扉の前に立つゼロの意に反した場所で小さな扉が開くというギャグがありますが、このシーンも扉はフレームの左側にありカメラは左に動き、小さな扉を映す事で観る我々の意表をつくギャグになっています。

 

また、脱獄のシーンでも右から左に移動する場面があります。そのシーンは実は梯子を取りにいっただけで、彼らは梯子を手に入れると左から右に切り返すのです。これも妙に面白い。

 

まだあります。ゼロがグスタフにローソクを買ってくるように言われるシーン。グスタフはゼロが正式に採用された労働者ではないと気づき、ローソクを買いにいこうとするゼロを制止します。ここもオフビートな笑いを生んでいるシーンなのですが、その時もゼロは左方向に駆け出そうとしています。

左から右という映画文法を逆手に使い、オフビートギャグを生んでいるのです。

 

■死の香り

 

右から左に移動することで「死」を暗示させています。

この映画で語られる物語はムスタファ・ゼロの口から語られますが、彼は自分が語る物語の登場人物の行く末を知っている訳です。だから特定の登場人物(特定の場所)を語るときネガティブになっているのだと思います。

 

グスタフとゼロが列車に乗るシーンが何度か出てきますが、そのどのシーンも列車は右から左に移動しているのです。最終的にグスタフがどの場所でどうなるのかを考えれば、納得できる仕掛けだと思います。

 

また、コヴァックス弁護士は登場の時からほとんど右から左に移動します。左から右に移動したのは美術館のシーンとバスの移動で1・2カット存在するだけです。

美術館のシーンでは、右から左に移動する弁護士のカットの間に、殺人者ジョプリングが靴を脱ぎ左から右に移動するカットが挟まれることで、抗いきれない運命によって死へ追いつめられていることを案に示しています。

 

 

アガサにも右から左に移動するシーンがあります。グランド・ブタペスト・ホテルのロビーから2階に上がる階段はどの登場人物も右側の階段を上っているのですが、「リンゴを持つ少年」の絵を手にしたアガサがドミトリに追いかけられるクライマックスのシーンで、アガサは左側の階段を上るのです。そのことがアガサに命が危ないというサスペンスが強調しています。

 

 

■メリーゴーランドと恋は、時間を止める

メリーゴーランドのシーンです。メリーゴーランドは左まわりに移動し続けます。普通に考えれば、愛する人と過ごす時間は、体感的に通常の時間軸とは違うものを感じるということを表現したかったのだと思います。

(「メリーゴーランドや子供が乗る乗り物は「左回り」を採用している場合が多い。」というそもそもな事実を見つけてしまったんですけど。こっこれは、左回りにするためにメリーゴーランドを採用したのであって。いや、ぎゃ、逆にお化け屋敷やジェットコースターなど緊張を煽る乗り物は「右回り」が多いらしい。ということは実はこの左から右に移動する映画法則が映画以外にも言えるということであって、あ、じゃあこれはむしろこの映画が右から左に移動させることで、高速ドミノ倒しに緩急を与えているという話に説得力を持たせるだけなんじゃないか?)

 

 

以上、映画は話の本筋やセリフ以外、カメラワークやシーンのつなぎ方、登場人物の動きで、シーンの特性や登場人物の感情を物語っているウェスアンダーソンの恐ろしさがわかっていただけたでしょうか。

 

まあ、この映画はこんなことを意識しないでも「こんな映画観た事ねぇよ」という映画なので、誰でも楽しめると思うんですけどね。

演劇「て」評:『桐島部活やめるってよ』の映画部顧問が本当に自分の半径1mを描いていた件について

「桐島、部活やめるってよ」の映画部顧問。「自分の半径1mをテーマに映画を撮れ」と前田君に言って、「桐島、部活やめるってよ」を観た全ての人間から顰蹙を買ったあの先生は、本当に自分の半径1mをテーマに脚本を書いていた。

 

 この先生を演じる岩井秀人さんは、劇団「ハイバイ」の旗揚げ人。

つい先日「ある女」という戯曲で第57岸田國士戯曲賞(演劇界の芥川賞と呼ばれているらしい)を受賞した新鋭の劇作家で、演出家で、俳優だ。

 

 そんな彼が自分の半径1mを描いた作品が「て」なのである。

■あらすじ

 とある家族の物語。

兄の太郎、姉のよしこ、次郎。妹のかなこを除いて彼らは父親に暴力を奮われていた。中学生のとき「将来何になりたい?」という問いに答えられずに太郎は木刀で、よしこはゴルフクラブでぼこぼこに殴られてた。

そんな状況だったものだから、次郎は独立してから家に寄り付かなかった。よしこもそうだったのだと思う。

 

 そんな、よしこが「山田家皆で集まりたい」と提案したのは意外だった。

 

「帰るよ。家族だけの集まりなんでしょ?」と申し訳なさそうに前田が切り出す。

次郎は「いや、いいって大丈夫」と切り返す。

 次郎の実家である“山田家の集まり”、それに出席するために次郎は久しぶりに実家に帰ってきたらしい。友達の前田を連れて。

 

 “山田家の集まり”の会場は「おばあちゃんの家」。次郎の実家のすぐ近くにあるようだ。久しぶりにおばあちゃんの家に訪れた次郎は、すっかりボケてしまったおばあちゃんの相手をする。

 

 そして、おばあちゃんの家を自分の兄が私有化していることに気づくのだった。

おばあちゃんの家にやって来た兄。おばあちゃんが話すことがボケていて事実と違うことを指摘する。

「わざわざそんなこと言わなくてもいい」と兄に注意する次郎、そして兄がおばあちゃんの家を私有化していることも重ねて注意する。

しかし兄には話が通じないし、何か逆に文句を言われることに腹を立てているようだ。そこに姉と母が現れ、事無しをえる。

 この1時間後に山田家の集まりは開かれる。もちろん父も交えて皆で。

■物語を2回繰り返す意味、母親の視点、次郎の視点

 

この演劇「て」は、この脚本を書いた岩井さんの経験に基づいている。

岩井さんは、この家族のなかで次郎だ。彼の父親が奮う暴力に脅えな がら育った兄弟3人は、今はバラバラだ。末妹は全くそのような理不尽な仕打ちを受けていないが、そのことに対し疎外感を覚えている。

あらすじで説明したように次男の次郎は、長男の太郎に対しても不満を持っている。実際に岩井さんは、この脚本を書いたとき父親と長男をとことん悪者にして「こんな悪いやつがいるんだ!」と知らしめたかったらしい。

 

 

その復讐のために母親にインタビューをすると父親は最低だったけれど、長男は違ったという話が出てきた。

おばあちゃん子であった長男 は、おばあちゃんが認知症を受け入れられず、おばあちゃんに酷いことを言っていたこと。おばあちゃんをとても大切にしており彼が一番おばあちゃんの世話をしていたという事実を岩井さんは知った。

 

 

なんだ兄ちゃん悪いやつじゃなかったんじゃないか…兄を悪者にする復讐劇は作れない。このようなやり取りの結果、「て」は自分自身の次郎の視点と、母親の視点の2面構成で描かれることになった。

 

 

母親は偉大だ。この演劇を観てそう思った。長男、長女、次女は、次郎視点のパートではみせない面を母親視点で描かれるパートでみせる。 長男がおばあちゃん子であること。長女が嫁入り先でトラブルを抱えていること。そして、ポッキーが好きなこと。次女が歌うことにプライドを持っているこ と。それは母親パートでしか描かれない。

 

次郎が見ていた山田家は断片的なもので、彼の思い込みによって歪められていたのかということが母親視点のパートをみることで、どんどんわかっていく作りここが巧みだと僕は思った。

■映画と演劇の違い

「演劇だからできること」は、どうでもいい。

と岩井さんは終わった後の座談会で言っていたけど、演劇だから存在するものに僕が「グッ」と来たのは間違いない。

 

 演劇だから存在するもの。それは舞台変換である。

 映画ならばシーンとシーンの間に、何か違うシーンを挟めば時間を飛ばせる。最悪「2時間後」とか「2年後」とか字幕でも入れればいい。お手軽だ。

 

 しかし、演劇はそれができない。

なぜなら演劇は演じている瞬間と、演劇を観ている瞬間に時差が全くないからだ。

 

そのためシーンとシーンの間には舞台変換をしなければならない。演劇はそれがネックだ。

それは無くすためにどうするか?

全てを1シーンにする。それも一つの手だろう。潔く暗転して黒子が急いで舞台変換する。それもありだ。

 

■回想シーンを演劇でやるには

「て」では全く違う手段をとっていた。

この演劇のプロローグは葬儀のシーンから始まる。

岩井秀人さん演じる喪主の母の一言。

それに続く神父の説教。

ふむふむ、この葬儀の主役、今回亡くなった菊枝さんと、神父は因縁めいた何かで結ばれていたのかな?

と神父の説教を聴いていると、急に舞台の後ろのほうにいる人物が「考えられない!」と声を発するのだ。

おうおう、修羅場か?さっそく修羅場か?と思いきや、彼の声は神父に聞こえず、隣にいる人物が反応するのみである。

この二人の会話が少し続き、神父はまた話し出す。もう一度同じ二人の会話が続いた後、さらに近くにいた女性二人も会話に加わる。「あの時、本当にびっくりしたよね」。ああ、なるほど、神父が話している瞬間と、後ろの二人とその近くの女性二人は違う次元を生きているのだな。

要するに彼らは葬式を思い出しながら、皆で話しているんだ。

 

映画だったら、編集ができる。だから、今話しているシーンと、過去を思い出すシーンは、回想シーンとして明確に区別できる。

しかし演劇はそれができない。

じゃ、いっその事、「違う時制のものを同じ舞台の上に存在させるので、観客はそれが別次元のものだと理解してね」と開き直った。その結果、違う時制が同時に舞台の上に混在する奇妙な空間が出来上がった

 

■男がおばさんを演じるということ

そもそも、しれっと書いたけど、岩井秀人さんは何で女装してるの?

これには岩井さん自身が答えていた。

「おばさん役に、おばさんを配置しても、真のおばさんには見えない」。

すいません。全く意味がわかんないです岩井さん。

 

後に岩井さんがわかりやすく説明してたことを要約すると、

おばさん役を男がやることによって、観客側が自分で男とおばさんという差異を埋めようと想像する。

その想像はどこから引っ張ってこられるのかというと、自分の経験である。

つまり、このおばさんに、観客は自分の経験上、一番ベストなおばさんを勝手に当てはめるのである。

それが自分の母親なのか。それともドラマや映画で観た人物なのかは人それぞれなのかもしれないけど、実際に舞台にいるおばさんより、よっぽどクオリティの高いおばさんを観客に届けることができる。

 

ということらしい。

因みにおばあさん役も若い女優さんがやっていますね。

「おばあさんをおばあさんが演じると皆心配になるでしょ。」岩井さんは説明されていました。

なるほど。

 「でも、僕自身がおばさんを演じたいってのが一番なんですけど。」

全てを台無しにする発言ありがとうございます。

 

■なぜか感動してしまう演劇的な作り手の嘘

 

プロローグ、おばあちゃんの葬式を回想シーンと始めの方で説明したけど、全く違う説明も出来る。

その場のリアルを超えた、超現実的な無意識が登場人物から漏れ出して、葬式の最中に登場人物同士で話を始めてしまったという説明だ。

 

あの会話の最後のほうには父親も、太郎も、参加している。

あの家族が、(太郎はまだしも)父親を含め、あの葬儀の後にまた一緒に葬儀を思い出しているなんて考えられない。

少なくともあの葬儀が終わった段階では。

あのシーンには、超現実的な無意識、存在してほしい未来、作り手の「こうだったらいいなぁ」いう思いが込められているのではないかと僕は思う。

 

その真骨頂は母親が父親のリバーサイドホテルを部屋の外で聞くシーンだろう。次郎の視点で中で起こっていることが語られているので、絶対母親の目の前で行われている現象は嘘であるとわかる。

 

しかし、喧嘩ばかりしていて、絶対に一つにならない家族が一つになったように見える明らかな嘘の瞬間、僕は涙を流していたのだ。

 

おばあちゃんが亡くなるシーンでは、おばあちゃんの魂は部屋から去っていった。

おばあちゃんを演じる若い女の人がベッドから立ち上がり舞台を去った。あれを成仏した瞬間と誰もが思ったはずだ。

魂だけの人間を観客に観せるのだから、超現実的な無意識、存在してほしい未来、全て観客は受け入れると信じて作り手は「て」を作っている。

 

■おわりに

いろいろ偉そうに書きましたが、僕はこの「て」が演劇初体験なので、演劇リテラシーがほとんどありません。(えっ!今、それ言うの)

なので、こんな戯言よりも本編をぜひ観て頂きたい。

とりあえず劇団「ハイバイ」のホームページを貼っとくので(http://hi-bye.net/)興味ある人はどうぞ。

DVDも買えるってよ。

「人を殺すこと」で自分を解放する?鬼才!韓国人監督パク・チャヌクの『イノセントガーデン』の衝撃

■あらすじ

インディア・ストーカー、18歳の誕生日。彼女は「何か」を探していた。毎年彼女には同じデザインの「靴」が送られる。その「靴」を探しているのだ。今年は少し様子が違った。「靴」の他に鍵が入っていたのだ。

 

 その日、18本のロウソクが立ったケーキは食べられることはなかった。なぜなら、インディアの父親が亡くなったからだ。葬式では父親の死が不審であるという噂が立つ。聴覚を始めとする感覚が優れたインディアには小さな声でも耳に入ってしまうのだった。

 

 父親がいなくなり母親とインディアだけになった家に、ずっと行方不明になっていた叔父が住み着くようになった。葬儀の日にひょっこり帰ってきたのだ。

 

 叔父は完璧な存在で魅力的だが、彼が来てから不思議なことが連続する。家政婦は急に行方不明に、彼の過去を知っている叔母も連絡が取れなくなった。

 

 孤独なインディアを唯一理解してくれる彼に対して共鳴していくと同時に、湧き上がる疑惑。このときは彼女自身の中にも叔父と同じ魔物が存在するとは夢にも思わなかった。

 


映画『イノセント・ガーデン』予告編 - YouTube

 

■無垢とは何か

 

無垢とは何か。

別に邦題である「イノセントガーデン」が秀逸だと思っているわけではありませんが、この映画が「無垢な少女が殻を破り、一人の女になる話」なので、始めの状態、つまり無垢(イノセント)が何かと考える必要があると思います。

 

辞書的にいうと「純粋で穢れないこと」が無垢みたいです。

わかったようで、わかりません。そもそも、何を基準にして「純粋」だったり、「穢れ」って言葉を使っているのかがわかりません。そんな頼りにならない辞書に変わって僕が「イノセントガーデン」においての無垢(イノセント)を定義します。

「1.両親から与えられた体、心、そしてそれを着飾るものだけで形成されている状態」

「2.転じて、何ものでもない状態」

 

が無垢(イノセント)。

 

そしてその「何ものでもない」無垢な状態に「穢れ」として、外的な情報、社会、他人を与えることで、映し鏡のように自己を認識することができます。

 

食べ物でも食べて初めて好きだとわかる。映画でも観て初めて好きとわかる。それが自己を形作ります。その結果「何か」になる。得体の知れない「何か」に。

 

■「少女と女」の中間地点の描写について

 

「無垢な少女が殻を破る」という描写が小さな伏線として、映画の中に散りばめられています。

殻を破られる“卵”が、直接的なものから、彼女の住む家、木からぶら下がる遊具のデザイン等、抽象的なものまで存在します。また、“虫刺され”を絞り、透明な液を体から出す様。血のついた鉛筆削りを削る様。その様子を執拗に写し、彼女の中の「得体の知れない本性」が殻を破ろうとしていることを予感させます。

 

そして、外的情報は「靴」です。靴は外に行くために欠かせないもの。叔父の「チャーリー・ストーカー」は「靴」を送ることでも彼女の殻を外から破る手伝いをしていたのです。初めて「靴」を送った16年前から。

     ◇

この映画で、普通のカットバックと、特殊なカットバックを使い分けているのも「少女と女の中間地点」に立ち安定しないことを作り手は伝えたいのだと思います。

 

まだ無垢な少女で安定段階にある状態、「靴に囲まれて彼女が寝そべるシーン」では“だんだん”に彼女の「靴」が小さくなっていきます。

「小さな頃から靴が送られている」。つまり「彼女の殻を破るため、小さな頃から外的情報が与えられている」という情報を画面から得られます。これが3→2→1と情報を与える普通のカットバックです。

 

一方で「彼女がシャワーを浴びるために服を脱ぐシーン」は特殊なカットバックを使用しています。2→1→3と順序が滅茶苦茶なのです。このカットバックの使い分けにより、シャワーシーンの時点で彼女はもう「少女ではなく女に移行している中間地点だ」と観客に認識させる狙いがあると考えられます。

     ◇

 またもう一つ印象に残るシーンは押さえきれない欲望に身を任せ、たまたま会った同級生の男を誘った、森の中の公園のシーン。同級生の男からの視点と同調したカメラは公園の遊具に乗る彼女を捉えます。

 

 彼女がグルグル回転する遊具に乗っているのですが、足元の遊具をフレームアウトさせることで、まるで彼女が幽霊など超現実的な存在のようなのです。

そして、滑り台の最も高いところに登り、見上げた男の視点…カメラは月を背にする彼女を捉えるのです。

 

 彼女がその同級生の男とは違う次元を生きている超現実的な存在になってしまった。そういうことを映画的に表現しています。

 

■「疑惑の影」の影

・「疑惑の影」にあったもの

パンフレットでも指摘されていますが、この映画の脚本はヒッチコックの「疑惑の影」を下敷きにしているようです。

 

主人公のインディア・ストーカーとチャーリー・ストーカーは、叔父と姪の関係です。

叔父のチャーリーは、インディアに毎年「靴」をプレゼントしてきました。その「靴」が『イノセントガーデン』の物語を転がす「キー」となります。

ヒッチコック風に「マクガフィン」と言うべきでしょうか。『疑惑の影』での物語の「マクガフィン」は『知らないイニシャルが刻まれた指輪』。叔父から姪へのプレゼントです。

 

『疑惑の影』に登場する姪は「チャーリー・ニュートン」、叔父は「チャールズ・オークリー」。他の家族が二人を同じ“チャーリー”を呼ぶことで二人と、他の登場人物に明瞭な線引きがされています。

 

一方で『イノセントガーデン』も、姪「インディア・ストーカー」と、叔父「チャーリー・ストーカー」は原題でもある「ストーカー」という姓という共通点を持っています。

 

     「疑惑の影」になかったもの

しかし、その線引きだとインディアの母親である「イヴリン・ストーカー」も、その区分に含まれてしまいます。

そこでこの映画では、より強固な叔父と姪の繋がりを作り上げたのです。その繋がりは「容姿」です。

「インディア」を演じたミア・ワシコウスカの金髪を黒に、青い瞳を黒に。「アリス・イン・ワンダーランド」に出演した時とは別人の様。ポイントを押さえ、「チャーリー」を演じるマシュー・グードに「容姿」を近づけたのです。

その間に「イヴリン」演じる“金髪で青い目”の二コール・キッドマンを配置することで、叔父と姪の関係性を際立たせています。

 

     人が「人を殺した」後に未来はあるのか

 

ヒッチコックの『疑惑の影』では姪は叔父を殺します。姪は複雑な心境で叔父の葬儀に出席、そこで映画は終わります。

『めまい』でもジェームズ・スチュワートは、その妄念ゆえ故意ではないにせよキム・ノヴァクを殺し、そこで映画が終わります。「人」を、自分にとって大きな存在を、「殺す」。

 

殺してしまった人間は、殺したことに心囚われ、彼女(彼)自身の時は止まってしまいます。それは彼女(彼)の物語の終わりを意味します。

 

『イノセントガーデン』を観たとき衝撃だったのは、「人を殺した」ことによって解放されたということです。

インディア・ストーカーは、チャーリー・ストーカーを殺すことで、彼女の欲望を縛る「無垢であること」から解放されたのです。

ヒッチコックの『疑惑の影』を下敷きにしているのに、それとは全く逆の構造をもっています。インディア・ストーカーの物語はこれからも続くのです。きっとこれから多くの人を殺す。この物語はその一部が切り取られたに過ぎないのです。

 

別に映画で「人を殺す」ことを良いこと、悪いことで論じる気は更々ありません。そもそも「人を殺し、これからも殺し続ける」であろう主人公が登場する『パフュームある人殺しの物語』を人生ベストに挙げている自分には何もいう資格はありません。

 

ただ、それが、ヒッチコックが映画を作っていた1920~70年代より描写として許容されるようになった。と改めて認識しただけです。

妻を取り戻せ!ラブ・コメディ映画「ラブ・アゲイン」が王道映画として優れていたので、ちょっくら分析してみた。

 「ラブ・アゲイン」観ました。

 本当に計算されつくした脚本でした。ネタバレ全開で書くこのレビューを読む前に一度、ご鑑賞することをお勧めします(一番の核心には触れないけど)。

 


『ラブ・アゲイン』予告編 - YouTube


■ あらすじ
 冴えない中年オヤジのキャル(スティーヴ・カレル)(40代)は、突然妻のエミリー(ジュリアン・ムーア)に三行半(離婚)を突きつけられる。

 妻 は自分が同僚と浮気していることを告白、しかし「私が浮気したそもそもの原因はキャルにある」と妻に責められる。耐え切れなくなったキャルは家を出た。


 別居を始めてからキャルはバーに入り浸った。「妻が浮気し、離婚を迫られている」と大声で誰とかまわず愚痴り続ける毎日だ。


 ジェイコブ(ライアン・ゴズリング)(30代)はナンパ師だ。狙った獲物は逃さない。バーで飲んでいる女性を見つけては声をかけ“お持ち帰り”し ている。

 ただ彼も失敗する。つい最近、弁護士の卵のお堅いハンナ(エマ・トーン)に誘いを断られている。「去るものは追わない」。
 彼はそんなことは気にも留めず、今日も獲物をあさっている。


 そんなジェイコブが、何故か彼の狩場に似つかわしくない中年オヤジに声をかけた。「妻に離婚を迫られているんだって?」。驚くキャルを頭の上から足のつめ先まで眺め、ニヤリと笑う。
 「俺が女性をモノにするコツ教えてやろうか?」


■あらすじへの補足
 この映画は群像的に物語を展開させています。あらすじではメインプロットの部分だけを書いたのでちょっと補足が必要です。


・中学生3年のロビー(キャルの息子)(13歳)も主人公の一人です。彼を主人公にした場面では、ベビーシッターのジェシカに彼が恋をする様を描きます。
・ハンナ(エマ・トーン)(20代半ば)を主人公にした場面では、彼女が今までの恋に見切りを付け、新しい恋を見つけるところを描きます。
・ キャルとエイミーの子供たちのベビーシッターのジェシカ(17歳)を主人公にした場面では、彼女がロビー(キャルの息子)の求愛に迷惑する一方で、キャルに淡い恋心を抱いている様が描かれます。
・ ついでにいうと浮気相手のデイヴィッド(ケビン・ベーコン)はエミリー(キャルの奥さん)に求愛し関係を持つが、完全に略奪はできていない様子が描かれています。


■ メインプロット分析&解説
 この映画のキーワードは「魂の伴侶」です。登場人物たちは「魂の伴侶」という存在を求め行動するわけです。
       ◇
 メインプロットの部分のキャルの場合を例に挙げて説明します。


□主人公が物語に関わる
 彼は「魂の伴侶」であったはずのエミリーに三行半を突きつけられます。「魂の伴侶」だと思っていた人物が「魂の伴侶」でなかった彼はどうすればい いのかわからず嘆くわけです。なにせ15歳で初めて付き合った女性と結婚しているゆえ、本当の「魂の伴侶」の探し方なんて知るわけもないし、「探すべき だ」ということすらわかっていない。


□主人公が新しい扉をあける
 そこへ「魂の伴侶」を探すことに関してはプロ(でも一度も見つけたことはないよ!)のジェイコブが現れ、彼のナンパ術と服のセンスを指南。見事キャルは立派なセンスのいい“やりチン”になるわけです。これで「魂の伴侶」も見つかるはず!


□新しい扉をあけた報いを受ける(善い面&悪い面)
 立派な“やりチン”になったキャルは、自信がつき格好良くなりました。息子の学校での面談で再開した奥さんもキャルを気にしています(善い 面)。たぶん最初にキャルがナンパしてヤリ捨てた女性が、教室で待っている息子の担任でなければここで映画は終わっていたでしょう(悪い面)。奥さんのエ ミリーは浮気相手のもとへ。


□本当に見つけるべきものを見つけ、手に入れ…
 奥さんに愛想をつかされたと思われたキャルだが、なんだかんだ言って奥さんのエミリーはキャルが気になるようです。そのことに気づいたキャルは 「自分の見せたくない面」をなんだかんだ言っても含めて全て受け入れてくれる奥さんが「魂の伴侶」であると確信します。エミリーを、「魂の伴侶」を手に入 れるために行動にでるが…

     ◇
 ここまでは物語の作り方の基本をなぞっているのですが、この映画の優れているところはキャルと同じように「主人公が物語に関わる」「主人公が新し い扉をあける」「新しい扉をあけた報いを受ける(善い面&悪い面)」「本当に見つけるべきものを見つけ、手に入れる」という過程を同時進行で他の登場人物 がこなしていることです。
     ◇
 この後、メインプロットに平行して積み上げていたサブプロット①ジェイコブ(ライアン・ゴズリング)、②ハンナ(エマ・トーン)、③ロビー(キャ ルの息子)、④ジェシカ(ベビーシッター)、⑤デイヴィッド(ケビン・ベーコン)が文字通り集結します。そして一気にクライマックスへ持っていくのです。


■「時間短縮」「印象付け」を同時にこなす技術が優れている
 この映画は少なく見積もっても6つの物語が同時進行しています。これを2時間に収めたことがまず優れています。下手な作り手だったら3時間超えの超大作になっていても、おかしくありません。


 時間短縮のために何をしたかというと
・三角関係、四角関係にすることで、同時に語れる部分を増やす
・映画的な見せ方で説得力を持たせた登場人物に台詞でチャチャッと説明させる
とこの二点のみ。


 1つ目は登場人物の関係を見ていただければわかる通り、ドロッドロです。キャルは奥さんをデイヴィッド(浮気相手)と奪い合い、ジェシカに人知れず愛されているロビー(キャルの息子)の恋敵なわけです。キャルの物語を進めると自ずと彼らの物語も説明できてしまいます。


 2つ目ですが、例えば冒頭のシーン。

食事に来たカップルたちがテーブルの下の足が映されます。

 カップルは足を伸ばしているので、カメラにはお互い の足が交差する様が映されています。たぶんお互い心を許して、リラックスして食事をしているので、足を伸ばしているのだと思います。カメラは何組かのカッ プルを捉えながら、ゆっくりと奥に進み、一組のカップルの足元を捉えます。

 あれ?足と足の距離が明らかにさっきまでと違うぞ?とカメラが彼らの顔の捉えた 後に奥さんのエミリーは「離婚して。」と短く切り出します。


 また、ジェイコブ(ライアン・ゴズリング)もそうです。

 彼がモテモテである。キャルが教えを請うべき人間である。という説得力を彼の再登場の シー ンに映画的に集約しています。

 「スローモーション」でのクドクドの登場ですが、明らかにキャルと違う各上の人間ということを映画的に説明しています。

 その 後にキャルが履いているニューバランスを、暴言を吐いてブン投げても観ていて嫌な気分にならないのです。


 ジェイコブとキャルの関係性が後半に変わります。そのことも映画的に説明しています。前半では「頬ビンタ」はジェイブがキャルにしていますが、関係が変わってからはキャルがジェイ部に「頬ビンタ」しています。

 きちんと伏線を張って説明しているので、クライマックスが粋に思えます。

 

 行動と台詞を同時にこなすことでかなりの時間短縮になっています。また、結果としてテンポがよくなり、時間を感じさせないと いう利点もあります。


■ゲームクリアの設定と話のもって行き方が優れている
 ここでもまたメインプロットのお話だけをします。キャルとジェイコブの恋愛の対比です。
 この映画の中盤以降にゲームクリアはホームランを打つ(魂の伴侶を見つける)ことだとわかります。


 キャルは15歳でエミリーと出会い、10代で結婚しています。思いっきり振ったバット(伝えた自分の想い)がたまたま飛んできたボール(相手の想い)に当りました。
 しかし20年後、デイヴィッドという敵が現れ新たなゲームが開始されたときには、バットを思いっきり振ることしか知らない初心者です。


 一方、ジェイコブは飛んできたボール(相手の想い)を打ちかえす高い能力を持っています。案打率(お持ち帰り率)は高いのですが、何せこのゲームはホームランを打って何ぼなもんで、ミート率がどれほど高かろうが、外野手の頭を超さなければ永遠にあがりはこないわけです。


 そんな全く違う能力を持った二人が出会い、師弟として接するうちに、お互いに成長する。そして「魂の伴侶を見るける」というホームランを打つ。

 世の中に腐るほど存在しそうな話ですが、前述のように映画的描写と台詞を用いて情報を出す順番を工夫すれば、こんなに新鮮なものになるので す。


■まとめ
 たぶんこの映画を「全く観たこともない、新しいものか」と問われた場合「そんなことはない」と答えます。

 どこかで観たことある描写、どこかで観た ことのある物語です。

 でも、それを作り手が丁寧に組み合わせ、丁寧に描写することで、こんなに新鮮で、面白い映画になりました。僕はそれを讃えたい。

ルーマニア映画「汚れなき祈り」は、独裁体制が崩壊した後の北朝鮮を描いている(かもしれない)映画だ。


『汚れなき祈り』予告編 - YouTube

 

■あらすじ ―ルーマニア社会の問題点を交え―

この映画はドイツに暮らしていたアリーナが、一時的にルーマニアに帰郷するところから始まる。アリーナを迎えるのは、彼女の孤児院での親友のヴォイキツァ。ヴォイキツァは、街から少し離れた丘の上の教会で修道女になっていた。

     

この映画の舞台となるこの修道院は、驚くほど質素だ。

電気は通っておらず、夜はろうそくの灯りが頼りだ。もちろん暖房などはなく、冬は室内であっても吐く息が白くなるほどの寒さである。

このような厳しい環境のなかで修道女たちは、神の愛に答えるために毎日祈りをささげていた。ヴォイキツァもその一人である。

     

アリーナの願いは唯ひとつ。自由の国、ドイツでヴォイキツァと共に暮らすことである。

しかし、ヴォイキツァはアリーナのその願いをかなえることはできない。彼女は神にその身を捧げた存在である。得体の知れない存在にヴォイキツァを奪われてしまった。アリーナはそう思うようになる。これが後にアリーナが心を病んでいくキッカケとなる。

     ◇

1960~1980年代のルーマニアは、北朝鮮のような独裁体制をとっていた。その独裁政権の政策はこの映画の舞台となった2005年にも大きな影響を与えている。

人工中絶の禁止と離婚の禁止。その政策の目的は経済力強化のための人口増加だった。実際に人口は増加したが、新たな問題が発生した。育児放棄によって孤児が増加したのだ。さらに急な人口増加に医療が追いつかず、まともな医療を受けることができなくなった。

人々の心の在り方、人間関係にも、独裁政権がもたらした影響は大きい。独裁者チャウシェスクは国民に個人崇拝を強制した。それは教会を禁止するなど徹底されたものだった。独裁者チャウシェスクは、教会を禁止するなど組織の徹底的に横の繋がりを絶った。社会をバラバラにすることで、独裁政権を生きながらえさせた。横のつながりを絶つ方法は簡単だ。国民をお互いに見張らせればいい。村八分だ。こうして国民は相互不信と、他者への無関心を募らせていった。

 

心の支えとして信仰が存在する。ヴォイキツァは信仰と友人との間で揺れ動く。ヴォイキツァの生き方はルーマニアの現状を浮き彫りにする。彼女は孤児院で育った。そのなかで相互不信と、他者への無関心というルーマニアの現状を目の当たりにした。現実に失望し信仰の道を歩む。ヴォイキツァのこの生き方は、ルーマニアの若者たちの精神を体現しているのかもしれない。社会から目を背け、盲目的に神に祈る。彼女は満たされていた。孤児院の親友、アリーナがやってくるまでは。

     ◇

 ヴォイキツァとドイツで暮らせない。アリーナの中で何かが壊れた。彼女はどうにもできない感情をあらわに、自分を傷つける。止めようとする修道女もお構いなしに暴れ続ける彼女は取り押さえられ、病院に運ばれた。彼女は統合失調症と診断される。

 

■「間違わない」という傲慢(以下ネタバレあり)

 この映画は2005年に起こった神父による殺人事件を基に構成されたフィクションだ。「悪魔祓い」を行なった結果、人が死んだ。「汚れなき祈り」と同じような題材を扱った映画に「エミリー・ローズ」がある。この二つの映画の「悪魔祓い」の描き方は全く違う。

 

エミリー・ローズ」は「悪魔祓い」に肯定的だ。この映画では「悪魔祓い」を行ない、エミリー・ローズという女性の命を奪った容疑をかけられているムーア神父の法廷劇が描かれる。法廷のなかでムーア神父がいかに慎重に「悪魔祓い」を行ったかが明らかになる。彼は信頼できる医者と両親の立会いのもとに「悪魔祓い」を行なった。この映画の元になった事件でも「悪魔祓い」の様子は全て録音され、何枚かの写真も存在している。

 

科学では説明できない何か(悪魔)に立ち向かうためには、信仰は必要だ。

そう信じる一方でムーア神父は知っている。自分が完璧でないことを。自分は間違うかもしれない。「悪魔祓い」は最良に思えるが絶対ではない。信仰だけでは人は救えないという事実を。その謙虚さが「エミリー・ローズ」の「悪魔祓い」を肯定的なものとした。

 

「汚れなき祈り」の「悪魔祓い」は明らかに否定的な描かれ方をしている。そもそも、この修道院は何か胡散臭い。修道女が祈るのは、見たくない現実から目を背けるため。神父も理想と現実の乖離に歯がゆさを感じている。

敬虔なクリスチャンとは彼らのことをいうのだろう。キリスト教の教えを守り、最低限の生活を送る。それは同時に、彼らの中の優先順位を狂わせていく。

彼らにとって自分の価値観が絶対なのである。それ以外は神聖なものを汚すとして受け入れない。

修道女たちは神父を慕うがゆえに「神父様が間違うはずがない」という盲目的になってしまっていた。神父も信者達の思いに答えねばならないという気持ちが先行し、自分の未熟さから目を逸らし続けている。神父は30歳前後、人の人生を語るにも、信仰を語るにも未熟である。監督のクリスティアン・ムシジウは、そんな彼らの「傲慢さ」を静かに指摘する。

 

■「変わらないということ」と「その副作用」と「副作用への処方箋」

《変わらないということ》 

変わらないことは重要だ。

この「汚れなき祈り」に登場する修道院の神父にはそういった想いがあったのだろう。映画の中で神父は「同性愛結婚、離婚、中絶」と世間の怠惰(とされるもの)を嘆く。

 彼が属するのは「ルーマニア正教会」。

 キリスト正教会の一つで「使徒達から始まった教会のありかたを、唯一正しく受け継いできた教会」を自負している。聖書を重んじ、受け継がれた伝承を大事にし「教会を形成していく人々の生きた体験の記憶」を守り続けている。この映画の中でも描かれているように祈祷や儀式などに対し簡略化などの恣意的な変更は認められない。

 

 「同性愛結婚、離婚、中絶」に対して嘆くこの修道院の神父は「ルーマニア正教」の「教会を形成していく人々の生きた体験の記憶」を守ろうという強い意志を感じる。キリスト教の創始者たちが、キリスト教を創り上げていた時に考えていたこと、やっていたことを守ろう。まさしく「正教会」の思想の本質を彼は体現している。

 

《その副作用》

 しかし、この神父や修道女たちは世間とどんどん乖離していく。

 ヴォイキツァがドイツに行く書類を申請する場面では、職員が妻と愛人が呪いで夫を呪い会う世間話をしている。

 病院ではベッドの回転数を上げるために適当な診察が行なわれる。救急隊員が未熟、そもそも救急車が来ない。

 神父を逮捕した警官達は、深刻な事態にある神父や修道女を気にも留めず、母親を刺した息子が死体写真をネットに上げた話をしている。

 国民の相互不信と、他者への無関心。独裁政権の置き土産だ。

 

壊れてしまった世間から目を背ける修道女。そんな世間に苦言を呈しながらも、具体的な解決に動き出すわけでもない神父。それは「ルーマニア正教会」と世間の乖離を暗に示唆している。

そんな神父は、アリーナとヴォイキツァを追い出すことで、修道院の平穏を守ろうとした。

「伝統を守り、変化しない」ことは大切だ。しかし、それには副作用が生じる。「伝統を守り、変化しない」という目的を共有することの出来ない人間は、締め出されてしまう。アリーナとヴォイキツァ、彼女達こそ救いを求めているのに。

 

《副作用への処方箋》

平田オリザ氏が中心となって取り組まれている「ロボット演劇」。

芸術の最先端だ。

「ロボット演劇」を行なうにあたって最も参考になったことは何かと問われると平田オリザは「文楽だ」と答える。

文楽とは大阪発祥の伝統芸能。近松門左衛門などが有名な人形浄瑠璃の伝統を今も寸分違わず受け継いでいる。文楽は基礎研究だ。その基礎研究があるからロボット演劇ができた。」平田オリザはそう続ける。

 

大阪十三の「シアターセブン」で私は平田オリザ氏の話を聞いた。かなり要約したがこういう趣旨の話をしていたと思う。

何故突然この話をしたのかというと、この話がアリーナとヴォイキツァなど、救いを求めているのに救われない人を救うヒントになるのかもと考えたからだ。

 

文楽は「伝統を守り、変化しない」。何故なら変えることで失われるものが多いと考えるから。この部分は「ルーマニア正教会」の考え方に近いものがあると思う。

 

文楽と「ルーマニア正教会」の違いを一つ挙げるならば、「最先端を認めるかどうか」である。文楽平田オリザが主導する「ロボット演劇」という最先端を認め、知識を共有した。この映画はルーマニア正教会」にはその姿勢はないと指摘しているように思える。

 

しかし、今こそ、その姿勢が「ルーマニア正教会」にも必要なのではないだろうか。

守り続けた伝統を壊れてしまった世間に伝え、アリーナとヴォイキツァが住みやすい世間にする。これが「ルーマニア正教会」の役割ではないのか。

伝統を守り続けることは大切だ。そしてそれを守るものは、どの伝統を今の時代にどう役立てることが出来るかを問わねばならないと私は思う。

 

■最後に

この話は決して、遠い国の話ではない。過去のルーマニアと同じような独裁体制国家である隣国、北朝鮮が崩壊した後に起こりうることなのである。それを忘れないでほしい。