チキチキ!火種だらけの映画評

映画のネタバレ記事が多いと思います。私の映画の趣味をやさしい人は“濃い”といいます。

ビンラディンを殺すことに命をかけた女の話「ゼロ・ダーク・サーティ」をべた褒めしたい!

 

非常に素晴らしい映画、誠実で作り手の志の高さが伺える。自分もこういう志の高さを持ちたいと思う。

 


映画『ゼロ・ダーク・サーティ』予告編 - YouTube


■あらすじ
「9.11」アメリカ合衆国に悪意が襲来した。その悪意の送り主、ビンラディンは、その数ヵ月後に姿を消した。

CIAの必死の捜索が実り、11年 5月にビンラディンが殺害される。

世界は知らない。ビンラディンの潜伏先を突き止めたのがCIA女性捜査官だということを。世界は知らない。彼女の葛藤 を。


■製作者たち
ハート・ロッカー」のアカデミー賞監督キャサリン・ピグローは僕が尊敬する監督の一人だ。

もしかしたら、彼女を「タイタニック」のジェームズ・ キャメロンの元奥さんと認識している人もいるかもしれない。しかしその認識は今日、新たにしたほうがいい。

ジェームズ・キャメロンをしても「自分より才能 は上」と言わしめる存在がキャサリン・ピグローだからだ。
彼女が描く人物はある種の狂気を帯びた存在だ。それはキャサリン・ピグロー自身が「映画監督」の仕事に強い信念を持っているからだろう。

彼女の生 き様がまるで、彼女が描く登場人物に憑依し、登場人物を通じて訴えかけてくる。「私にはこれしかないんだ」。これはキャサリン・ピグローの心の叫びだ。


ハート・ロッカー」からキャサリン・ピグローとコンビを組んだ脚本家のマーク・ボールはもともと世界を股に駆けるジャーナリストだ。今作「ゼロダーク・サーティ」の徹底的にリアルな描写も彼の取材の賜物だろう。
     ◇
「ゼロダーク・サーティ」は史実に忠実だ。

しかし、劇映画である。実際は数人のCIA職員で行われたことを映画のなかでは一人に集約するなど、映 画というメディアに載せるための手段としてフィクションを使っているに過ぎない。

8章に分かれたその体裁は戦場ルポタージュのようであり、紙の本を読んで いるような感覚に襲われる。

ドキュメンタリーなのか、劇映画なのか、映画なのか、本なのか、非常に定義が難しい作品であり、そこにも挑戦を感じる。

 

■マヤという架空のCIA職員
何人ものCIA職員に取材し、彼らがビンラディンの潜伏先を突き止めるまでの道のりを、マヤという架空の人物(モデルはいると思われるが、詳しく はパンフレットでも書かれていない。)に集約している。CIA職員の狂気が見事に描かれている。

ビンラディンを見つけるという目的のために、彼らの人間性はどんどん失われていく。

     ◇

自爆テロに巻き込まれ命を落とすかもしれない仕事も、寝る間を惜しんでデータを分析するのも、拷問をして情報を引き出す汚れ仕事も、末端の仕事。

そんな末端のCIA職員が求めるのはアメリカ大統領が、政治的判断するために必要な情報だ。

彼らが情報を見落とせばテロが起きる。誤情報踊らされれば戦争が起こる。

「9.11」「イラク戦争」がまさにそうだ。

 

「イラクには核兵器がある」

彼らがその誤情報を掴まされたから、戦争が起こったのだ。

 

マヤはパキスタン 支局に到着した当初は優秀だが頼りない存在だった。仲間を失い、自分自身の人間性を犠牲にしながら、彼女はどんどん狂気を帯びていく。

 

「他人を気遣う余裕 がない」

人間としての感情はどんどん切り捨てていく。ビンラディンは用心深く、一切の通信機器を使わない。捜索は困難を極め、彼女がパキスタン入りしてか ら10年の月日が流れた。


■「不謹慎」「オバマ賛歌」「拷問容認」との戦い

ビンラディン暗殺作戦の撮影は「不謹慎」との戦いでもあった。

「不謹慎」に打ち勝つためにキャサリン・ピグローはリアルを求めた。

細かくカットを 割って撮影したならば、どうしても派手な戦闘シーン「見せ場」を作ってしまう。そうならないために彼女は実際の作戦で行なわれた行動を通しで2回、訓練を 積んだ俳優達に行なわせた。

 

さらに月のない夜を選んだ。映像は全て暗視カメラを通した映像だ。その場のリアルを追求し、どう見せるかを考え抜き実行する。 キャサリン・ピグローの手腕が伺える。


この映画は「オバマ賛歌」ではない。

政治判断を賛美する映画ではない。

そもそも何も賛美していない。現場が行なった作戦が忠実に描かれるだけだ。

そして、その中に「拷問」がある。決して、容認しているわけではない。拷問をオバマが禁止したことで、アメリカ国民の命を守る情報を得ることが一時的に難 しくなったということを描いただけだ。

 

■まとめ

何故、人は映画を観るのか。その一つの答えがこの映画にあると思えた。

自分が知らない事実、知ろうともしなかった事実を「体験」できる

実際に体験できないことを本を読むよりリアルに「体験」できる。それが優れた映画の僕らにもたらすものの一つだ。そして、それを求めるために僕らは映画を観る。

「ゼロ・ダーク・サーティ」には僕らが求める「体験」がある。

 

この映画を観るまで、CIAの仕事についてなんて考えたことはなかった。いいイメージなんて持ったことはなかった。

この映画を観て気付いた。至極当たり前なこと。

「この人達(CIA)って僕らと同じ人間だ」ということに。それは「体験」しなければわからないことだ。

 

「何かを成し遂げたい」「そのために何を犠牲にしてもいい」「狂っている、間違っていると言われても、私はこう生きるんだ」

私はそう考える人間に魅力を感じる。生きるってそういうことでしょとさえ思っている。そういう人たちがCIAにいて、一生懸命働いているんだよ。

キャサリン・ピグローはたぶんそう言いたいのだと思う。

 

僕はそう考える人は仲間だと思えるし、むしろ大好きだ。

 

知らないで単純に非難するのは簡単だ。

 

思っているよりも、CIAの仕事は難しいし、CIA職員は人間だった。

それを教えてくれた「ゼロ・ダーク・サーティ」に本当に敬意を表したい。

イラン映画を観よう。「別離」から観るイスラム国家イランの住み辛さ。

 

2011年度アカデミー外国語映画賞受賞作品。イラン映画。反政府的な映画を作ると即逮捕のイラン。

 

故に「別離」で描かれたようなテーマを扱う場合「反政 府的なこと、反イスラム的なことを言わないよう(政府にも文句を付けられないよう)、観ているものに反政府的、反イスラムと思われても仕様がないことを伝 える」という離れ業を求められる。

それにきちんと答え、さらに映画としても面白いという一口で二度美味しい映画になっております。

 


『別離』予告編


<あらすじ>


イランに住むナデルとシミンは14年来の夫婦だ。この夫婦は離婚の淵に立たされている。シミンは夫と娘と共に外国で生活したい。

娘の将来を考える とイランを出るのが正しい選択だと思っているからだ。

イランは女性差別も厳しいし、イスラムの厳しい規律もある。夫婦共に同じ考えだったが、問題が起こっ た。夫ナデルの父がアルツハイマーで介護なしに生活できなくなったのだ。協議離婚が認められていない(どちらかが一方的に悪い場合は離婚できます)イラン では、離婚してシミンと娘だけがイランを出ることも認められない。

どうしようも出来ないシミルは家を出て、自らの実家に身を寄せた。


シミルが家を出て、父を介護するものがいなくなったので、ナデルは若くて貧しい敬虔なイスラム信者のラジエーを雇った。

彼女は無職の夫に秘密にし てこの職についていた。結婚した妻は夫以外の人間に肌を見せてはいけないというイスラムの教えからわかるよう、夫婦間の絆(束縛)が強いからだ。

 

ある日、 ナデルが家に帰ると、アルツハイマーの父がベッドに縛り付けられ、彼女は家を空けていた。職場放棄だ。さらに、お金も盗まれている。

いけしゃあしゃあと 帰ってきた彼女を咎めるナデルは、決して職場放棄の理由を話さない彼女に腹を立て、クビを言い渡す。

 

挙句の果てには「お金を私が盗んだなんて決め付けるの は失礼だ、謝れ。」と謝るまで、家に居座る姿勢をみせる。

彼は彼女を家から押し出した。外から悲鳴が聞こえた。彼女が階段から落ちたのだ。

ラジエーは流産した。

彼女は妊娠したのだ。イランでは4ヶ月以上の胎児は人間であり、その胎児を殺せば殺人だ。

ナデルの裁判が始まった。

<ミステリー映画、夫婦倦怠映画、そしてその下に隠された、開かれたイスラム世界の生き辛さ>


何故、ラジエーはアルツハイマーの父を縛り付けたのか。そして何処に行っていたのか。という話を軸に話は二転三転する。

 

裁判は真実を明らかにする場だ。

しかし彼らは真実を言わない。自分が不利になることは決して言わない。表向きは強がっているが、実際は不安でたまらない。それを悟られないよう虚勢を張る。周りから人がいなくなる悪循環だ。


プライドと疑心暗鬼がジャマをし、別居中の妻の助けを借りようとしないナデル。

彼は妻が自分の弱みに付け込んで、離婚を企んでいるのだと思ってい る。

真実を知ることを娘には求め、自分は真実ではなく罰を受けない実を取り、そのダブルスタンダードで娘をつき付ける。

 

この行動が、何か政府が国民を弾圧する姿勢にも 似てやしないかと思ってしまう。


示談というカタチで話が収まりそうになるたびに、お金を受け取ることが許されないなど、イスラムの規律が問題になる。

 

敬虔な信者にとってイスラム の規律を破ることは娘の代まで呪われるのと同義だ。

それを酷く恐れている。ルールって守ることが目的化していては、世話がないのだが、この世界では現実に 起こっていることだ。

<イスラムへの仮説、監督が言いたかったこと。>

あくまで仮説なので許容してください。


イスラム教は完璧だ。

しかしそこには、「もし世の中がイスラムというコミュニティだけだったら」という前提がつく。

 

でも現実にはそうではない。

キリスト教、仏教も、ヒンドゥー教も、ユ ダヤ教も天理教も、いろいろある。無神論者もいる。

イスラム教は生活の中にルールとして宗教を組み込んだ。

キリスト教のように生き方の根幹の部分を新約聖 書という物語に載せて語っているわけではない。

生活のルールが、法律が、イスラム教なのだ。

それを破ることは許されないことだ。解釈の余地がない。他の考 えを許容する遊びの部分がない。

 

ガッチガチなのだ。だから、排他的になって、盲目に生活しなければ、生きづらくなる。


この監督はそんなイランが嫌なのだろう。そんなガッチガチの世界で、自分の言いたいことも言えないのは辛い。

それを言うことすらも許されない。せめて表現者としてそれを僕ら観客に伝えたい。

 

こんなイランどうですか?と問うているんだろう。

 

その命がけで必死の姿勢に心打たれてしまった。

 

後悔しない人生の選択を。映画「JUNO/ジュノ 」で学ぶ「生き方講座」

「生き方講座」なんて仰々しいものではないです。すいません。ただの映画「JUNO/ジュノ」感想ですが、人生の選択、その大切さを扱った映画だったので、このようなタイトルにしました。

 

元々、面白いという噂は聞いていたけど(アカデミー脚本賞を獲っていたり)何故か「観るべき映画」の優先順位上位にならず、結局観てなかった作品。何故 急に観たかというと俺が人生ベスト級に好きな「サンキュー・スモーキング」と同じジェイソン・ライトマンが監督していると気付いたから。


インセプション」「スーパー!」とかに登場していたエレン・ペイジがJUNOの子と呼ばれているのは「女子高生が妊婦」というセンセーショナル な響きによる注目度の高さだろ?ハハン?と半笑いで侮っていたけど、俺が間違っていた。間違いなくこの作品はエレン・ペイジの代表作でした。すいませんで した。謹んでお詫び申し上げます。

 


JUNO Trailer
<あらすじ>
「妊娠したの」彼女はきりだす。「妊娠検査薬を3回試した。間違いない。」と続ける。そう語るジュノの口調は、まるで友人にテストで赤点を取った こと報告するかのようだ。中絶は嫌、でも自分では育てられない。考えた結果、里親を探すことにした。タウン誌のペット募集の次のページでジュノの御眼鏡に見合う里親を見つけた。その後、里親に会う約束を取り付けるのだが…

<信頼できる編集>
ジュノが里親の家に行くまでの描写が素晴らしい。高級住宅街とボロボロのワゴンを対比させることで、ジュノと里親のあいだにある社会的、金銭的格 差を描いている。その格差を埋めるドライな手段として法律が存在するが、そんなものに頼らなかったジュノの人柄と、常識に縛られる里親の抱える問題も暗示 している。この少しのモンタージュ描写でそれを演出するジェイソン・ライトマンは信頼できる男である。

<間違っていても、正しい>
■「サンキュー・スモーキング」という映画について
何で俺が「サンキュー・スモーキング」が大好きなのかというと、主人公が明らかに社会的に間違っていて嫌われる存在だから。

「未成年の喫煙?大歓迎だ!それでストレス発 散になって、未成年の犯罪抑止にも繋がっている。寄付もしているしね。」というような論理のすり替えを駆使し喫煙問題を煙に巻く。そんな彼の職業はタバコ 会社の広報担当者。

彼はこの仕事に誇りを持っている。「俺は嫌われものの味方でいたいんだ」息子に自分の生き様を語る。そんな彼を簡単に間違っているといっていい のだろうか。

社会で間違っているといわれることに従事している人は間違いなく存在する。そんな彼にも生活がある、家族がある、夢がある。彼らに優しい視点 を持つことを教えてくれたジェイソン・ライトマン監督には拍手を送りたい。


■中絶は、離婚は、10代の妊娠は、間違っているの?
この映画の偉いところはどの人の主張も否定していないし、肯定もしていないこと。例えば、中絶反対運動に熱を燃やす高校生も、宿題はやっていない、気分がのらないという理由 で。彼女をきちんとひとりの考えを持った女の子として描く誠実さがこの映画にはある。

ジュノを妊娠させた男の子も「ママが…」と親離れしていない様子を見せながらも、彼なりに考え悩み、変っている(そして、妊娠で変わっていく《主に体 型が》)ジュノと変わらず接している。
結婚したから、妊娠したから、相手に合わせて自分は好きなことを我慢しなければいけないのか。この問いにこの映画はきちんと答えている。

「そうし たい、と思えるならすればいいし、そうしたくないと思えれば、選択肢はいくらでもある」。

中絶でも、離婚でも自分がそうする選択をしたならそれでいい。 そうすることで自分が幸せになれるならば、強制はしない。と優しいのか、ドライなのか、よくわからない眼差しで登場人物を捉えている。

唯一つ言えるのは 「自分の選択には責任を持とうな」ってこと。この映画の登場人物は皆、逃げることはしなかった。

<自分の他人の選択を不愉快と思わないために私たちが必要な3つのこと>
■相手を知る
自分と相手は違う、まずそこに気付きましょう。相手がどのような人生を歩みたいか、自分の嗜好を受け入れてくれるか、そこにきちんと向き合いましょう。


■自分を知る
相手が自分の嗜好を受け入れてくれない場合、それを犠牲もしくは対策できるのかを考えましょう。なーなーにしてしまうと後で困ります。


■否定しない
離婚はダメ、相手の嗜好はダメ、受け入れない私はダメと初めから全てを否定してはいけません。自分には何ができて何ができないかを考えて、選択をしたならば、腹を括って行動しましょう。

「26世紀青年」というバカすぎるブラックコメディ映画を観たよ!

初めに言っておきます。この映画。クソ面白ぇから絶対観たほうがいい!


<あらすじ>
アメリカの軍隊に、とても平均的な男がいた。彼の名前はジョー。彼は誰も来ない軍隊の資料室で、テレビを観るだけの毎日を過ごしていた。そんなあ る日、そこからの移動を言い渡される。「僕は、今の仕事に満足しています。何も考えなくていいから!天職です!だからお願いします。この仕事を続けさせ て!」と必死に食い下がるが、「お前は、指示するか、従うかで、従うしか選択できない人間だ」と上司に諭され(脅され)、渋々と了承する。

実は彼、人工冬眠の実験体に 選ばれていた。
彼と共に選ばれていたのが風俗嬢のリザ。だいぶ、ふざけている。そしてジョーは彼女と共に永い眠りについた。


そして500年の月日が経った。

計画の責任者は、リザの彼氏である売春の元締めとの関係が問題となり、軍を追い出されていた。その結果、計画は頓挫、彼らは500年ものあいだ眠りについていたのだ。
彼らが目覚めた500年後世界、そこは「バカ」が世の中を支配する世界だった。

<とりあえず、どれくらいの「バカ」か、を説明しておいたほうがいいと思うので。>
アカデミー作品賞の大人気映画「ASS」
英語の勉強です。「ASS」って何ですか?正解はお尻、お尻の穴ですね。そう、ただただお尻が映っているだけの映画です。たまにオナラもでるよ! そして、未来のアメリカ人は皆、大爆笑!

映画館では「ASS」が大人気だけど、ドラマでは何が流行りか?だって。お前、知らないのか?「タマが痛ぇ!」を ただ、ひたすら金マを蹴り上げられるあの伝説の番組を!
大統領がプロレスラーで、AV男優。
大統領が明らかに気に入ってつれてきた巨乳の姉ちゃんとか、自分の弟で構成されている内閣。「お友達内閣」処の騒ぎではない。
農作物が育たない?ああ、そうだろうな。
未来社会には「水」が存在する。でもな、その「水」俺らが知っている水じゃないんだ。どう考えても、その「水」はゲーターレイドなんだ。俺らが 知っている水は既に飲み水ではなく、トイレを流すだけの存在に成り下がっている。人間にとってスポーツドリンクは体にいいから、植物にも皆大好きゲーター レイドやろうぜ!って理屈で農作物にゲーターレイドやっていたら、それに含まれる塩が土を駄目にした。その結果、砂漠化も進む。そんな世界。


<どうしてこうなった。>
頭が悪い奴はいっぱいSEXをして、ぽこぽこ子供をつくる。
この映画では二組のカップルを例に挙げ説明しています。一組は高学歴で高収入のカップル「子供はまだ作れないわね」と子供を作るのに慎重なようだ。もう一方のカップルは、低学歴で低所得。やりまくりで避妊しないから、ぼこぼこ子供が出来る。旦那は浮気して、外でも子供を作る。結局、高学歴カップ ルは子供を作らずじまいで、低学歴カップルはぼこぼこ子供を作る。この構造が500年続いた結果、世の中にはバカしかいなくなりましたとさ。


<コメディだけど、笑えない話>
「アイアンスカイ」という映画があった。アレはナチスが月から攻めてくる。というトンでも映画だった。アメリカの大統領が、ナチスの考え方に『そ れいいわね!採用。』といってしまうなど、アメリカの共和党と共和党支持者が、ファシズムと親和してしまっている描写が笑えるけど、笑えなかった。

イラク 戦争を仕掛けたブッシュ政権が、戦争を人気取りにしていた事実と、リンクするからだ。戦争や国同士の腹の探りあいを続けた結果、世界がどうなるかまで描く 良作だった。
アイアンスカイと同じ恐さがこの映画にはある。アメリカの地方都市ではイラク戦争から何年も経った後でも「イラクが911を起こした犯人だ」と 思っている奴が沢山いたらしい。※

彼らは生活に密着したローカルな情報しか必要とせず、生活に必要のないものや、自分の興味のないもの、ファッションやス ポーツのこと以外は情報を仕入れない。※

テレビをつければ、フォックスニュースばかりを観ていて、ブッシュに肩入れし情報操作された情報を鵜呑みにする (フォックスグループは、そういう取引をしているマジで)。この映画で描かれたことの予兆はアメリカの各地で起こっているのだ。何てことだ!洒落にならな い。
<でも、この「26世紀青年」って20世紀フォックスの映画じゃないですか、ヤダー>
フォックスのグループ会社の社員さん、おっすおっす!素敵な邦題ありがとう。「イデオクラシー」って本当の名前はバカを意味する単語+デモクラ シー(民主主義)という、とても気の利いた題名なんだけどね。映画の中でフォックスニュース流したのが不味かったの?キャスターをマッチョと、AV女優し たのが不味かったの?死刑映像を放送するのが不味かったの?※だから、お蔵入りになりかけたの?宣伝写真2枚しかないの?

何これひどい笑えない。

 

<バカばかりの世界にならないためには、どうすればいいの!>

この映画は解決策も示している。根本的な話だ。「本を読め!難しい話をしろ!自分で考えろ!」コレが全てである。この映画に登場するバカは主人公が何か少しでも難しいことを言おうとすると「女みてぇにグダグダ言ってんじゃねぇよ!」という。難しいこと=かっこわるい事なのだ。でも、そういう風潮って日本でも結構ある気がする。ガリ勉とか人をバカにしたり、難しいことを考えている人は話が面白くないって言ったり、そういう風潮ってない?自分の周りでも。

ブッシュは大統領選挙でそれをやった。その風潮をフォックスグループのテレビに乗せて振りまいた。その結果がイラク戦争だよ。(オバマの時代にそんな古い話をするなって言うかもしれないけど)※

この映画は「本を読め!難しい話をしろ!自分で考えろ!」と主人公のジョーは言う。彼も何も考えず、テレビを観続け、テレビの言うことだけを信じる存在だった。一般的アメリカ人だった。でも、彼はその行為の行き着く先を見た。だから言う。

「本を読め!難しい話をしろ!自分で考えろ!」と。

 

※この記事はだいぶ町山智浩氏のポットキャストを参考にしております。ホントだいぶ。

大島渚の「御法度」のリアルじゃない首から、大島渚の魅力を説明してみた。

<前文>

 

ある日テレビをつけると「戦場のメリークリスマス」で有名な大島渚監督が亡くなったというニュースが流れていた。様々な著名人が「惜しい人を亡くした」と述べている。

「そういえば、大島渚監督の作品を一本も観たことがないな」と教養の低さを露呈する呟きをしたあと、大島渚追悼と銘打って彼の作品を何本か一気に観た。

 

その大島渚追悼上映の最後の作品が「御法度」である。

 


「御法度」予告編

 

 

<当たり前という呪縛>

 

映画を観る中で一つだけどうしても気になるシーンがあった。気に入らないというのが正しいのか。

この映画で大島渚に見初められ、俳優の道を志した松田龍平演じる、加納惣三郎が初めて人を殺すシーンである処刑描写。

それがどうにもいただけない。

首を切り落としたあとに、その首を拾い上げるのだが、その首がどうにもリアリティがない。口と目を見開いた凄まじい形相で、明らかに作り物とわかるものなのだ。「それはあんまりだろう」と思っていたのだが、ひとつの考えが頭を過ぎり考えを改めた。

そもそも、実際に人の首がはねられた様など私は観たことがない。映画シーンなどで首をはねる行為を観たような気にはなっているが、実際にそれが本当にリアルなのか確かめようもない。

実際に首をはねたところを見て「なるほどこれが首をはねるということか」と納得するまで、近くで見たり、遠くから見たりと、様々な角度から観察することで初めて「御法度の首切りはリアルではない」と言えるのではないのか、と思い直すことにした。

 

何故、このような面倒の臭い僕の考えを吐露したのかというと、多くの人間は「あたりまえ」という思い込みに縛られており、「御法度」という映画を観るにあたってその「あたりまえ」という思い込みは障害にしかならない、ということをまず初めに伝えねば、と考えたからである。

 

これから語っていく「御法度」という映画は、新撰組に新しく入隊した加納惣三郎という美少年が、まるで淫乱な娼婦のように、次から次へと男を魅了する物語であり、男同士の恋愛、いわゆる「男色」が話の軸として存在するので、「あたりまえ」という思い込みを持った人間にとっては、その「あたりまえ」が先んじて話の本質にたどり着く前に、誤解してしまったり、拒絶反応を起こしてしまう可能性がある物語だ。

 

ネット上の感想を呼んでみても、この「御法度」という映画を観て、加納惣三郎は男色であることが原因で粛清された、という誤解をしている人もチラホラみられた。

 

 念のために説明すると幕末の世で、男色は忌み嫌われるものという考え方は「あたりまえ」ではない。

 

仏教が日本に伝わった頃、僧侶は仏教の戒律で女性と関係を持つことが禁じられていた。「女性と関係が持てないならば、男性と関係を持てばいいじゃないか」という、どう考えても本末転倒としか思えない、仏教の戒律の穴を衝いた発想で「男色」は広がっていった。

 僧侶から始まった「男色文化」は貴族の世、武士の世でも権力者の流行の最先端であり続けた。

平安の権力者である藤原道長は複数の男性と関係したという文献を自ら残し、フランシスコ・ザビエルも日本人は素晴らしいが、「男色」という許すことが出来ない罪悪を持っていると述べている。ここからわかるように「男色文化」は明治になるまで「あたりまえ」なものとして存在したのだ。

その後、明治の西洋化の流れの中で、キリスト教の価値観が世の中に根付き、「男色文化」は忌むべきものという価値観が「あたりまえ」として存在するようになる。

 

 「男色文化」は忌むべきものという価値観の歴史は浅い。幕末という時代設定を考えると、「御法度」の登場人物が「男色文化」に対して、嫌悪感や抵抗感を抱かずに、「男色もいいけれど、女を抱くほうが健全だ」程度の考えしか持っていないのは至極当たり前の話だ。

「御法度」は本当の意味での「あたりまえ」を説得力を持って描ききっているので、観客としてもその「あたりまえ」を誠意を持って受け入れるのが筋だというものだと、私は思う。

 

なるほど、「男色文化」の歴史が長いことはわかった。でも、私の大好きな新選組を「男色文化」で汚す理由にはならない。許せない。と、いう論調で、この「御法度」という映画を否定する方もいらっしゃるかもしれない。

 

ここまで新撰組に思い入れがある人には何を言っても通じないかもしれないが、一応、作り手側はその辺の配慮がありますよ、ということ述べておく。

 

新撰組の隊服と言えば浅葱色のダンダラ模様の隊服だ。今回はそれを用いず、黒の隊服になっている。今まで描かれた新撰組とは一線を画くものとなる描き方をしますよ、と作り手側は初めから公言しているのだ。

 

まぁ、きっと、ここまでこの駄文に付き合ってくれた方ならば、このような「あたりまえ」の檻に縛られず、過去観た作品によって形作られた新撰組のイメージを一度白紙にして、この「御法度」を鑑賞してくださるはずだ。そう、信じたい。

 

大島渚作品から観る「御法度」>

 

私が立て続けに観た作品は「青春残酷物語」「太陽の墓場」「白昼の通り魔」「日本の夜と霧」と、今回の「御法度」であり、この5作品で大島渚の遺作である「御法度」を語るのは、いささか心もとない。彼の中期以降の作品がすっぽり抜けているのである。

 

要するに、私は大島渚の代表作といわれる「愛のコリーダー」「戦場のメリークリスマス」も観ていない映画弱者であり、この文章はその映画弱者の戯言なのだが、映画弱者なりにも、ネットなどの情報を踏まえて、大島渚という作家性を無理やり想像し「御法度」について語ってみようと思う。

 

彼の初期の作品は、作品内で権力機構への反発を声高らかに叫ぶものであった。

そして、その一方で反発するもののあり方を、世代、生まれ、考え方、性別、様々な立場の人間同士で議論させることで、反発するもの達への批評性を帯びた作風だった。

反発するものの中での対立構造の描き方が非常に巧みで、それぞれの作品全てが戦後の日本を生きた人々の息遣いを感じさせてくれるものであった。

 

その一方で、彼の遺作である「御法度」はどうだろう。

 遺作である「御法度」には大島渚のその作家性というものが、60年代の彼の初期の作品よりもマイルドになっている気がするのは気のせいだろうか。

 もちろん、司馬遼太郎の『新選組血風録』という原作ありきの劇映画だから、という側面もあるかもしれない。しかし、それだけでは、映画内部の登場人物に、初期の作品にはあった「明日がわからない、未来が見えない」と嘆く人々、声高らかに権力機構への反発を叫ぶ人々の生き辛さのようなものが感じ取りにくいことへの説明はできていない気がする。

 
 決して「御法度」という作品には抑圧された感情が渦巻いていないわけではない。加納惣三郎の魅力に対する何ともいえない感情を押し殺す様は見て取れる。

  

「近藤総長は衆道(男色)のケはないはずなのに、加納惣三郎の美しさの虜になっているのではないか。」と土方は懸念する。「まさか、自分も」と考え、その考えを押し殺す。

 「御法度」の舞台である「男色文化」に対して、明治以降の世の中のように忌むべきものという価値みはなかったと先ほどは書いたが、当時の性に対する価値観が大らかなだけであって、決して推奨されるものではなかった。

「男色」であれ、何であれ、快楽に身を任せることは身を滅ぼすという考えが、土方の頭を過ぎったのだろうか。実際、加納惣三郎は何かを察した沖田によって粛清された。まるで土方が「まさか、自分も」という考えを押し殺すように。

 

その一方で、加納惣三郎の虜になり、関係をもってしまった隊士、湯沢藤次郎は抑圧していた新撰組創設メンバーへの不満の感情をあらわにする。明確には示されないが、湯沢藤次郎は愛した男である加納惣三郎に殺される。湯沢藤次郎だけではなく、田代彪蔵も、加納惣三郎に心乱された男は皆、加納惣三郎に殺される。…とここでは述べておく。(湯沢を殺した犯人に関しては自説があるので。)

 

誰もが心を奪われ、のめり込んでしまったものを自ら殺してしまう加納惣三郎という男に大島渚は何を見出したのか。

 加納惣三郎に心を乱されながらも、自分を見失わなかったものと、自分を見失ったものとの違いは何なのか。

 この二つの謎を解くことができれば、大島渚作品の初期の作品と「御法度」の違い、「御法度」という映画の本質がわかるような気がする。

 

まずはじめに、加納惣三郎という存在に答えを出すと、それは“抗うことのできない魅力”のように思える。完全に魅せられてしまった田代や、湯沢は勿論のこと、近藤や土方、山崎や井上(もしかしたら沖田も)新撰組の全ての人物が、加納惣三郎の魅力に取り付かれてしまう。

 抗えない魅力に自ら進んで支配されることを選んだのが、田代や湯沢などの平隊士であり、新撰組の中でも支配される側、一方で抗えない魅力に抵抗し元を断ってしまうことを選んだのが沖田であり、彼は新撰組創設メンバー、要するに体制側だということが非常に興味深い。

 

自分を見失わなかったものと、自分を見失ったものとの違いは何なのか、という問いに、私なりの解答を出すと、体制側である近藤、土方、沖田は、加納惣三郎とは全く違う“抗うことのできない魅力”に囚われている。

 それは新撰組の使命である。彼らは反幕府勢力を取り締まる警察活動という使命がある。そこに近藤と土方は囚われている。

沖田が土方にいう「近藤さんと、土方のあいだには誰も入れないという暗黙の了解」とは、使命を共に果たすものとしての絆だ、と読み解くことができる。

 近藤と土方と想いを共にする沖田はその絆の強さを重々理解したうえで、その絆を壊すのは、また違う強い絆だということを「雨月物語」の一説を引用し指摘している。

衆道と呼ばれる男同士が性的関係を結んだことによって出来上がった絆は、新撰組の使命という絆を壊すということを沖田だけが気付いているのである。

 沖田は、何よりも体制側である自分たちが新撰組としての体をなせなくなるのを畏れた。

加納惣三郎の美しさという“抗うことのできない魅力”は新撰組の根幹をも腐らせてしまうものだと気付いた。だからこそ、近藤や土方が持つ絆が、加納惣三郎の美しさという“抗うことのできない魅力”に屈する前に手をうった。

 粛清が一歩遅ければ、加納惣三郎が、体制側である近藤や土方、沖田と取り変わり権力を握ってしまう結末もありえたのかもしれないのである。

 

なるほど、「御法度」という映画の本質、面白さは新撰組内部の権力闘争なのか。と言い切り、納得してしまうのはいささか抵抗があるのは何故だろうか。

その答えは簡単だ。権力機構への反発を叫ぶ人々を描いてきた大島渚が、そんな単純な持てるもの同士の権力闘争を描きたいと思うわけがないと、私は考えるからである。

 

<物語の二重構造について>

 

「物語」という言葉には二つの意味がある。

「物語」が成立するためには最低二人の登場人物が必要であり、その二人の登場人物とは、語り手と語られる主体である。

突然何をこいつは哲学めいた話を始めたのか、と不安になる気持ちはわかるが、その不安を押し殺して付き合って欲しい。

 

私が言いたいのは一つ。

「物語」には語り手が語るもの以外に語られる主体が感じとるものが存在する、というものだ。“行間を読む”という言葉はまさにそれで、語り手が語った言葉と言葉の間から、当時の社会情勢であったり、登場人物の気持ちであったりを語られる主体が察するわけだ。

あとは、恐い話を聞いて夜眠れなくなったり、トイレに一人でいけなくなるということも、語り手が語った物語以外のものを語られる主体が感じとった結果だとも言える。

 

この「御法度」という映画は作り手である大島渚が長年描き続けた「権力に押さえつけられた人達」が映画で大っぴらに語られていない。もし存在したとしても「日本の夜と霧」のように聞いてもいないのに自分を主張し続ける輩は一人としていない。

皆、押さえつけられ、自らの主張を押し殺している。語るのはいつも新撰組ナンバー2という立場で、組織を支配する土方だけである。

新撰組という組織で主張を許されるものは、惣三郎の美しさに抗うことができたものだけである。その一方で、「権力に押さえつけられた人達」はどうか。新撰組という権力機構への反発を声高らかに叫んだ日には粛清が待っている組織のなかで、力を持たぬゆえ息を殺していた「権力に押さえつけられた人達」は惣三郎という新しい可能性、衆道の絆を得て、初めてざわつき、主張を始める。

 

湯沢藤次郎を殺したり、山崎を襲ったのは誰なのかという話がネット界隈で騒がれているが、私は加納惣三郎に魅せられた名もなき新撰組の隊士だと秘かに思っていると告白しておく。

 

語り手が語る物語では、決して語られたわけではないが、語られる主体である私はこの映画から「権力に押さえつけられた人達」を感じ取ってしまうのだ。

このようにして考えると「御法度」は、権力を持っている体制側に抑圧された話であり、「青春残酷物語」「太陽の墓場」「白昼の通り魔」「日本の夜と霧」で大島渚が描いていたテーマとの一貫性が見える。

大島渚が新撰組の物語で描きたかったのは、きっと平隊士の物語だ。体制側に支配されている側の物語であり、声高らかに権力機構への反発を叫ぶことすら許されない人達の物語であり、新撰組の使命よりも色恋を優先してしまう人達の物語を大島渚は描きたかったのである。

しかし、それを映画のなかで描くのは「御法度」だ。彼らは語れない。語れば死が待っている。

 

そういえば、「気に入らない」と私が苦言を呈した、あの首の持ち主も、「権力に押さえつけられた人達」の一人だったのかもしれない。彼は四番隊平同士、武藤清十郎は新撰組の仕事と偽って金を借りた罪で斬首の刑に処された。

大島渚にとって、彼は描きたくとも、描くことを許されなかった主役の一人だ。

口と目を見開いた凄まじい形相が画面いっぱいに映されたあのシーンを今、思い返すと「なるほど、あれはあれでいいのかもしれない」と思えてきた。

「御法度の首切りはリアルではない」うんぬん以前に、あれは語られる主体である我々が真の主役である「権力に押さえつけられた人達」の末路を見届ける大切なシーンだ。

リアルでない、と苦言を呈されながらも画面いっぱいに主張し続ける、あの元四番隊隊士の生首は「権力に押さえつけられた人達」の言葉にならない声だ。

 

大島渚は死ぬまで「権力に押さえつけられた人達」を描き続けたのだ。