チキチキ!火種だらけの映画評

映画のネタバレ記事が多いと思います。私の映画の趣味をやさしい人は“濃い”といいます。

大島渚の「御法度」のリアルじゃない首から、大島渚の魅力を説明してみた。

<前文>

 

ある日テレビをつけると「戦場のメリークリスマス」で有名な大島渚監督が亡くなったというニュースが流れていた。様々な著名人が「惜しい人を亡くした」と述べている。

「そういえば、大島渚監督の作品を一本も観たことがないな」と教養の低さを露呈する呟きをしたあと、大島渚追悼と銘打って彼の作品を何本か一気に観た。

 

その大島渚追悼上映の最後の作品が「御法度」である。

 


「御法度」予告編

 

 

<当たり前という呪縛>

 

映画を観る中で一つだけどうしても気になるシーンがあった。気に入らないというのが正しいのか。

この映画で大島渚に見初められ、俳優の道を志した松田龍平演じる、加納惣三郎が初めて人を殺すシーンである処刑描写。

それがどうにもいただけない。

首を切り落としたあとに、その首を拾い上げるのだが、その首がどうにもリアリティがない。口と目を見開いた凄まじい形相で、明らかに作り物とわかるものなのだ。「それはあんまりだろう」と思っていたのだが、ひとつの考えが頭を過ぎり考えを改めた。

そもそも、実際に人の首がはねられた様など私は観たことがない。映画シーンなどで首をはねる行為を観たような気にはなっているが、実際にそれが本当にリアルなのか確かめようもない。

実際に首をはねたところを見て「なるほどこれが首をはねるということか」と納得するまで、近くで見たり、遠くから見たりと、様々な角度から観察することで初めて「御法度の首切りはリアルではない」と言えるのではないのか、と思い直すことにした。

 

何故、このような面倒の臭い僕の考えを吐露したのかというと、多くの人間は「あたりまえ」という思い込みに縛られており、「御法度」という映画を観るにあたってその「あたりまえ」という思い込みは障害にしかならない、ということをまず初めに伝えねば、と考えたからである。

 

これから語っていく「御法度」という映画は、新撰組に新しく入隊した加納惣三郎という美少年が、まるで淫乱な娼婦のように、次から次へと男を魅了する物語であり、男同士の恋愛、いわゆる「男色」が話の軸として存在するので、「あたりまえ」という思い込みを持った人間にとっては、その「あたりまえ」が先んじて話の本質にたどり着く前に、誤解してしまったり、拒絶反応を起こしてしまう可能性がある物語だ。

 

ネット上の感想を呼んでみても、この「御法度」という映画を観て、加納惣三郎は男色であることが原因で粛清された、という誤解をしている人もチラホラみられた。

 

 念のために説明すると幕末の世で、男色は忌み嫌われるものという考え方は「あたりまえ」ではない。

 

仏教が日本に伝わった頃、僧侶は仏教の戒律で女性と関係を持つことが禁じられていた。「女性と関係が持てないならば、男性と関係を持てばいいじゃないか」という、どう考えても本末転倒としか思えない、仏教の戒律の穴を衝いた発想で「男色」は広がっていった。

 僧侶から始まった「男色文化」は貴族の世、武士の世でも権力者の流行の最先端であり続けた。

平安の権力者である藤原道長は複数の男性と関係したという文献を自ら残し、フランシスコ・ザビエルも日本人は素晴らしいが、「男色」という許すことが出来ない罪悪を持っていると述べている。ここからわかるように「男色文化」は明治になるまで「あたりまえ」なものとして存在したのだ。

その後、明治の西洋化の流れの中で、キリスト教の価値観が世の中に根付き、「男色文化」は忌むべきものという価値観が「あたりまえ」として存在するようになる。

 

 「男色文化」は忌むべきものという価値観の歴史は浅い。幕末という時代設定を考えると、「御法度」の登場人物が「男色文化」に対して、嫌悪感や抵抗感を抱かずに、「男色もいいけれど、女を抱くほうが健全だ」程度の考えしか持っていないのは至極当たり前の話だ。

「御法度」は本当の意味での「あたりまえ」を説得力を持って描ききっているので、観客としてもその「あたりまえ」を誠意を持って受け入れるのが筋だというものだと、私は思う。

 

なるほど、「男色文化」の歴史が長いことはわかった。でも、私の大好きな新選組を「男色文化」で汚す理由にはならない。許せない。と、いう論調で、この「御法度」という映画を否定する方もいらっしゃるかもしれない。

 

ここまで新撰組に思い入れがある人には何を言っても通じないかもしれないが、一応、作り手側はその辺の配慮がありますよ、ということ述べておく。

 

新撰組の隊服と言えば浅葱色のダンダラ模様の隊服だ。今回はそれを用いず、黒の隊服になっている。今まで描かれた新撰組とは一線を画くものとなる描き方をしますよ、と作り手側は初めから公言しているのだ。

 

まぁ、きっと、ここまでこの駄文に付き合ってくれた方ならば、このような「あたりまえ」の檻に縛られず、過去観た作品によって形作られた新撰組のイメージを一度白紙にして、この「御法度」を鑑賞してくださるはずだ。そう、信じたい。

 

大島渚作品から観る「御法度」>

 

私が立て続けに観た作品は「青春残酷物語」「太陽の墓場」「白昼の通り魔」「日本の夜と霧」と、今回の「御法度」であり、この5作品で大島渚の遺作である「御法度」を語るのは、いささか心もとない。彼の中期以降の作品がすっぽり抜けているのである。

 

要するに、私は大島渚の代表作といわれる「愛のコリーダー」「戦場のメリークリスマス」も観ていない映画弱者であり、この文章はその映画弱者の戯言なのだが、映画弱者なりにも、ネットなどの情報を踏まえて、大島渚という作家性を無理やり想像し「御法度」について語ってみようと思う。

 

彼の初期の作品は、作品内で権力機構への反発を声高らかに叫ぶものであった。

そして、その一方で反発するもののあり方を、世代、生まれ、考え方、性別、様々な立場の人間同士で議論させることで、反発するもの達への批評性を帯びた作風だった。

反発するものの中での対立構造の描き方が非常に巧みで、それぞれの作品全てが戦後の日本を生きた人々の息遣いを感じさせてくれるものであった。

 

その一方で、彼の遺作である「御法度」はどうだろう。

 遺作である「御法度」には大島渚のその作家性というものが、60年代の彼の初期の作品よりもマイルドになっている気がするのは気のせいだろうか。

 もちろん、司馬遼太郎の『新選組血風録』という原作ありきの劇映画だから、という側面もあるかもしれない。しかし、それだけでは、映画内部の登場人物に、初期の作品にはあった「明日がわからない、未来が見えない」と嘆く人々、声高らかに権力機構への反発を叫ぶ人々の生き辛さのようなものが感じ取りにくいことへの説明はできていない気がする。

 
 決して「御法度」という作品には抑圧された感情が渦巻いていないわけではない。加納惣三郎の魅力に対する何ともいえない感情を押し殺す様は見て取れる。

  

「近藤総長は衆道(男色)のケはないはずなのに、加納惣三郎の美しさの虜になっているのではないか。」と土方は懸念する。「まさか、自分も」と考え、その考えを押し殺す。

 「御法度」の舞台である「男色文化」に対して、明治以降の世の中のように忌むべきものという価値みはなかったと先ほどは書いたが、当時の性に対する価値観が大らかなだけであって、決して推奨されるものではなかった。

「男色」であれ、何であれ、快楽に身を任せることは身を滅ぼすという考えが、土方の頭を過ぎったのだろうか。実際、加納惣三郎は何かを察した沖田によって粛清された。まるで土方が「まさか、自分も」という考えを押し殺すように。

 

その一方で、加納惣三郎の虜になり、関係をもってしまった隊士、湯沢藤次郎は抑圧していた新撰組創設メンバーへの不満の感情をあらわにする。明確には示されないが、湯沢藤次郎は愛した男である加納惣三郎に殺される。湯沢藤次郎だけではなく、田代彪蔵も、加納惣三郎に心乱された男は皆、加納惣三郎に殺される。…とここでは述べておく。(湯沢を殺した犯人に関しては自説があるので。)

 

誰もが心を奪われ、のめり込んでしまったものを自ら殺してしまう加納惣三郎という男に大島渚は何を見出したのか。

 加納惣三郎に心を乱されながらも、自分を見失わなかったものと、自分を見失ったものとの違いは何なのか。

 この二つの謎を解くことができれば、大島渚作品の初期の作品と「御法度」の違い、「御法度」という映画の本質がわかるような気がする。

 

まずはじめに、加納惣三郎という存在に答えを出すと、それは“抗うことのできない魅力”のように思える。完全に魅せられてしまった田代や、湯沢は勿論のこと、近藤や土方、山崎や井上(もしかしたら沖田も)新撰組の全ての人物が、加納惣三郎の魅力に取り付かれてしまう。

 抗えない魅力に自ら進んで支配されることを選んだのが、田代や湯沢などの平隊士であり、新撰組の中でも支配される側、一方で抗えない魅力に抵抗し元を断ってしまうことを選んだのが沖田であり、彼は新撰組創設メンバー、要するに体制側だということが非常に興味深い。

 

自分を見失わなかったものと、自分を見失ったものとの違いは何なのか、という問いに、私なりの解答を出すと、体制側である近藤、土方、沖田は、加納惣三郎とは全く違う“抗うことのできない魅力”に囚われている。

 それは新撰組の使命である。彼らは反幕府勢力を取り締まる警察活動という使命がある。そこに近藤と土方は囚われている。

沖田が土方にいう「近藤さんと、土方のあいだには誰も入れないという暗黙の了解」とは、使命を共に果たすものとしての絆だ、と読み解くことができる。

 近藤と土方と想いを共にする沖田はその絆の強さを重々理解したうえで、その絆を壊すのは、また違う強い絆だということを「雨月物語」の一説を引用し指摘している。

衆道と呼ばれる男同士が性的関係を結んだことによって出来上がった絆は、新撰組の使命という絆を壊すということを沖田だけが気付いているのである。

 沖田は、何よりも体制側である自分たちが新撰組としての体をなせなくなるのを畏れた。

加納惣三郎の美しさという“抗うことのできない魅力”は新撰組の根幹をも腐らせてしまうものだと気付いた。だからこそ、近藤や土方が持つ絆が、加納惣三郎の美しさという“抗うことのできない魅力”に屈する前に手をうった。

 粛清が一歩遅ければ、加納惣三郎が、体制側である近藤や土方、沖田と取り変わり権力を握ってしまう結末もありえたのかもしれないのである。

 

なるほど、「御法度」という映画の本質、面白さは新撰組内部の権力闘争なのか。と言い切り、納得してしまうのはいささか抵抗があるのは何故だろうか。

その答えは簡単だ。権力機構への反発を叫ぶ人々を描いてきた大島渚が、そんな単純な持てるもの同士の権力闘争を描きたいと思うわけがないと、私は考えるからである。

 

<物語の二重構造について>

 

「物語」という言葉には二つの意味がある。

「物語」が成立するためには最低二人の登場人物が必要であり、その二人の登場人物とは、語り手と語られる主体である。

突然何をこいつは哲学めいた話を始めたのか、と不安になる気持ちはわかるが、その不安を押し殺して付き合って欲しい。

 

私が言いたいのは一つ。

「物語」には語り手が語るもの以外に語られる主体が感じとるものが存在する、というものだ。“行間を読む”という言葉はまさにそれで、語り手が語った言葉と言葉の間から、当時の社会情勢であったり、登場人物の気持ちであったりを語られる主体が察するわけだ。

あとは、恐い話を聞いて夜眠れなくなったり、トイレに一人でいけなくなるということも、語り手が語った物語以外のものを語られる主体が感じとった結果だとも言える。

 

この「御法度」という映画は作り手である大島渚が長年描き続けた「権力に押さえつけられた人達」が映画で大っぴらに語られていない。もし存在したとしても「日本の夜と霧」のように聞いてもいないのに自分を主張し続ける輩は一人としていない。

皆、押さえつけられ、自らの主張を押し殺している。語るのはいつも新撰組ナンバー2という立場で、組織を支配する土方だけである。

新撰組という組織で主張を許されるものは、惣三郎の美しさに抗うことができたものだけである。その一方で、「権力に押さえつけられた人達」はどうか。新撰組という権力機構への反発を声高らかに叫んだ日には粛清が待っている組織のなかで、力を持たぬゆえ息を殺していた「権力に押さえつけられた人達」は惣三郎という新しい可能性、衆道の絆を得て、初めてざわつき、主張を始める。

 

湯沢藤次郎を殺したり、山崎を襲ったのは誰なのかという話がネット界隈で騒がれているが、私は加納惣三郎に魅せられた名もなき新撰組の隊士だと秘かに思っていると告白しておく。

 

語り手が語る物語では、決して語られたわけではないが、語られる主体である私はこの映画から「権力に押さえつけられた人達」を感じ取ってしまうのだ。

このようにして考えると「御法度」は、権力を持っている体制側に抑圧された話であり、「青春残酷物語」「太陽の墓場」「白昼の通り魔」「日本の夜と霧」で大島渚が描いていたテーマとの一貫性が見える。

大島渚が新撰組の物語で描きたかったのは、きっと平隊士の物語だ。体制側に支配されている側の物語であり、声高らかに権力機構への反発を叫ぶことすら許されない人達の物語であり、新撰組の使命よりも色恋を優先してしまう人達の物語を大島渚は描きたかったのである。

しかし、それを映画のなかで描くのは「御法度」だ。彼らは語れない。語れば死が待っている。

 

そういえば、「気に入らない」と私が苦言を呈した、あの首の持ち主も、「権力に押さえつけられた人達」の一人だったのかもしれない。彼は四番隊平同士、武藤清十郎は新撰組の仕事と偽って金を借りた罪で斬首の刑に処された。

大島渚にとって、彼は描きたくとも、描くことを許されなかった主役の一人だ。

口と目を見開いた凄まじい形相が画面いっぱいに映されたあのシーンを今、思い返すと「なるほど、あれはあれでいいのかもしれない」と思えてきた。

「御法度の首切りはリアルではない」うんぬん以前に、あれは語られる主体である我々が真の主役である「権力に押さえつけられた人達」の末路を見届ける大切なシーンだ。

リアルでない、と苦言を呈されながらも画面いっぱいに主張し続ける、あの元四番隊隊士の生首は「権力に押さえつけられた人達」の言葉にならない声だ。

 

大島渚は死ぬまで「権力に押さえつけられた人達」を描き続けたのだ。