チキチキ!火種だらけの映画評

映画のネタバレ記事が多いと思います。私の映画の趣味をやさしい人は“濃い”といいます。

【全人類観るべし!】『ふがいない僕は空を見た』を観て、ふがいなかったあの頃を思い出した。【俺のベスト1だ。】

 

「ふがいない僕は空を見た」を観ました。2度観ました。1度目はショックが大きくて、自分の感情が先走りすぎてレビューが書けませんでした。

観終わった後、『大阪梅田のロフト、ジュンク堂、阪急メンズ館を1回から最上階まで往復し、阪急メンズ館のトイレで心が落ち着き、我に返る。』という自分でもよくわからないことになっていたものですから、無理もないと思います。

我ながら。

 


「ふがいない僕は空を見た」予告

 

何故、ここまで僕は動揺したのかといいますと、この映画の主人公の高校生、斉藤卓巳が経験したことは、俺が高校時代に経験したことと同じようなことだからです。

 

思いっきり、ネタバレしますが、卓巳君はタマタマ偶然であった人妻のあんずとコスプレセックスに勤しみます。

結果、旦那にバレ、あんずの旦那が仕込んだ隠し撮り&動画サイトへの投稿というダブルパンチ。

それにより、彼らのコスプレセックスは世間の目に曝されます。さらに何者かがばら撒くビラによって学校、親、近所の人々にも知れ渡ります。

そして、卓巳君は学校に行けなくなった( ´Д゚`)ンマッ!!

 

僕も高校時代に『俺の携帯のエロフォルダが火を噴いた』結果、「今まで積み上げてきたモノ(キャラクター)が音をたてて壊れた(クラスメイト談)」という経験があります。

だから、卓巳君の気持ちは痛いほどよく理解できるのです。

僕は「精神構造がおかしい(クラスメイト談)」らしいので、次の日すぐに学校にいきましたが、その後のクラスメイトの心無い言葉は辛かったです。

 

卓巳君も再び学校に行きます。心ない野次に卓巳君は笑顔で答えます。自分の恥ずべき性欲と、それに対する他人の蔑み・嘲笑を受け入れるのは大変です。

僕は経験したのでわかります。

僕は彼の笑顔の裏の闘いを知っています。

 

だから、

『弱点を曝け出した他人を貶めることで自分の地位を守ろうとする輩は、実は弱くて必死なだけ』

という真理を悟り、笑ってしまった卓巳君の成長が嬉しくて仕方がありませんでした。あ、彼は大丈夫だって。

 

『水は低きに流れ、人の心もまた、低きに流れる』攻殻機動隊S.A.C. 2nd GIGに登場する九世英雄(クゼヒデオ)のセリフです。水の流れと同じように人も怠惰に流されます。

自分の地位を守るために、自分のやり場のない気持ちを発散するために、

「弱いものを貶める」という最低な方向に流れていきます(Д )

 

喜々としてビラをばら撒いた犯人、福田君と、あくつさんも、その流れに抗えませんでした。福田君は卓巳君の(表向きは)親友です。

橋向こうの団地で、超貧乏でハードモードな人生を送っている彼らは、その生まれながらの理不尽を、やり場のない感情を、弱さを曝け出した卓巳君にぶつけるのです。

彼らはコスプレセックスの画像が載ったビラを撒きます。

 

このシーンは本当に輝いている。このシーンを朝日をバックに、映画の中で一番美しいシーンとして描くタナダユキ監督としての性格の悪さ手腕は素晴らしいと思います。そうだよね。あの時ばかりは、ハードモードな人生から解放されるもんな。

 

誰しもがやり場のない理不尽を抱え生きていますが、それを誰かにぶつけても何の解決にもなりません。

 

福田君には、そう教えてくれる人物がいました。

アルバイトの先輩、田岡さんです。

そして、彼自身もどうにもならない問題を抱えていて、その解決策を必死に探していました。

 

田岡さんの苦しみを知った福田君はそっと祈ります。

 

2回目は結構冷静に観ていたのですが、その祈りがそっとスクリーンに表示され、映画館が無音になった瞬間「この瞬間のために映画観ているよな」と思い、涙が出てきました(○´ω○)

 

このシーンを見ていたとき、福田君が僕に野次を飛ばしたクラスメイトの一人と完全に重なったのです。

詳しく彼のことは言えませんが、「アイツにも事情があったんだな。アイツも人の痛みも自分の痛みと同じように感じられるようになったんだろうな」と僕は思うことが出来きました( ´)ノ(映画と現実の区別が付かないことの好例)

 

まぁ、あんずさんの旦那とか、姑とか、自分の痛み、苦しみに精一杯で「自分が一番不幸(T_T;)」みたいな奴もいますよ。

旦那の無神経っぷりは万死に値すると未だに怒りが収まらないので、「あいつも苦しんでいるんだよ」という思考は今だ一切なされていません。

 

そんな彼らの理不尽のはけ口にされていた、あんずさんが不憫で不憫で。

(上司にパワハラ喰らってたときを思い出したとかは秘密。電話口で相手がブチギレルのって恐いよね。相手が見えなくて情報が限られて、想像力が掻き立てられるから)

 

彼女のそんな都合を卓巳君はどれだけ体を合わせても全く知らないわけです。

卓巳君視点で描かれるセックスシーンと、あんずさん視点で描かれるセックスシーンは全く違うもの。

あんずさんにとって卓巳君は耐え難い現実からの逃避。未熟な卓巳君には想像もつかない苦しみを抱えています。

卓巳君が最後にあんずさんのマンションに訪れた時、あんずさんの事情を理解しようと考えたのでしょうか。たぶん、アイツなら、何が大切かわかってるはずだと思う。

 

最後は卓巳君のお母さんの視点が描かれます。

この残酷で、理不尽な世界に扉を開けて入って来る赤ん坊を出迎える助産師さんの話。

こんな残酷で、理不尽な世界に赤ん坊を出迎えなけらばならない苦悩、福田君のエピソードがあるから余計に身に染みます。

 

こんな残酷で、理不尽な世界でも、生きていかなければならないもんね。

 

 

卓巳君があんずさんの家に扉を入り、始まったこの映画のラストに、卓巳君が赤ん坊を出迎える側に立ち、先輩として声をかける場面を持ってくる。上手い構成です。

この映画は、様々な主人公の視点から描く、群像劇という構成が巧みに機能している素晴らしいものでした。


そして何より僕にとって思い入れが深い映画です。僕のトラウマ、そして人格を構成した出来事が、この映画では、とてもドライで美しく再構成され描かれています。(勝手にそう思っているだけ)

 

たぶんこの映画を観るたびに「バカだったなぁ」と「大変だったなぁ」が同居した何とも言えない気分になるでしょう。

 

この映画は自分にとって特別な一本だと思うので今後も何度か見直したいと思います。

【観てない人は】DVD化されていない名作「カルフォルニア・ドールズ」の素晴らしさを語ろう【人生損している】

「カルフォルニア・ドールズ」を観た。

営業社に乗って今日もどさ回り。これが取引先のスーパーを周る営業の話だったら、夢も希望もない。

 


『カリフォルニア・ドールズ』『合衆国最後の日』予告編

 

カルフォルニアドールズ は、黒髪のアイリス(ヴィッキー・フレデリック)と、金髪のモリー(ローレン・ランドン)からなる美女レスターのタッグ。

彼女達二人は、マネージャー(兼 トレーナー)であるハリー(ピーター・フォーク)の運転するいつ止まるかわからなそうなボロボロのアメ車に乗って全米を巡業。

毎日が崖っぷちのどさ回り。


けれども彼女らには夢と希望がある。

ドールズの二人は有名になることを夢見、マネージャーのハリーはドールズなら必ずやれると信じている。その夢と希望をガソリンに、今日もボロ車を走らせている。

プロレスの試合シーンがめちゃくちゃ面白いのは勿論、巡業のシーン、映画でいうダレ場も面白い。

ハリーがドールズのファイトマネーを悪徳興行師か ら受け取りに行くだけでも一波乱がある。

スーパーの店長は、お金を払う時に渋ったりしない。

渋ったり、値切ったりされると会社同士の揉め事になるから、そ の辺のセーブが働く。しかし、ドールズみたいな(3人だけの)弱小な個人事業相手ならば、その辺のセーブをする必要はない。だから、悪徳興行師は好き放題 だ。


この悪徳興行師は終始悪役として描かれるのだけれども、何故か憎めない。

彼の横にいるアウトレイジビヨンドに出てきた名高達男(強面なのに間の抜 けた役柄)みたいなボディガードが「20ドル値切るのは流石に酷いんじゃないのかなぁ」と、悪徳興行師の良心を代弁するからである。

たぶん、悪 徳興行師はそんなことは一切思っていないし、その後も最低な行為を行なうのだけれども、名高達男が何か言うたびに嫌な感じはかき消されてしまう。

この辺の配置がにくい。

夢のために生きるというのは予想以上に辛い。

時には夢を信じられなくなり「この毎日に意味があるのか」と不安になる。気が狂いそうになる。時に は、心の底では夢が叶わなかった後どうするかを考え、そんなことを考えてしまう自分が嫌で、気持ちを紛らわすために薬や女に手を出し、挙句の果てには暴力 事件を起こしてしまうこともある。


でも、それを怒ったり、たしなめたり、笑い飛ばしてくれるユーモアに溢れた仲間がいる。

「やっちゃったものは仕様がないね。皆で解決しよう(こんな野暮なセリフはない)。」と、ガス欠になったボロ車を押しながら、夢を叶える道を模索し続ける。

そんなドールズたちの晴れ舞台をこの映画は最高に盛り上がる演出をする。

ラスト30分の試合のシーンは本当に最高だ。映画内のプロレスの試合の時 間の30分と、実際の現実の時間がリンクしているので、目の前で試合が行なわれておるのかと錯覚してしまう。

プロレスはいかに観客を味方につけるかが勝負 だ。

その演出をドールズのマネージャーのハリーは心得ている。

音楽家や応援団にお金を渡し、ドールズの登場シーンから盛り上げて観客の心を掴む。最終的に は音楽家も応援団もお金を貰ったからではなく、心の底からドールズを応援しているのが笑える。


ドールズたちは挑戦者である。そして負け組みである。

負け組みであるドールズが、必死に足掻く姿が観客の心を打つのである。

そして、この映画の素晴 らしいのは、負け組みが戦う相手が、決して勝ち組みでないことだ。

 

対戦相手のチャンピオンチームがダウンした時、戦う相手が露呈される。

カウントされな い。チャンピオンチームを負けさせないためにレフェリーが露骨な贔屓だ。レフェリーは、ドールズを勝ったら困る人間によって買収されていた。

チャンピョン贔屓だった観客も、遂にブーイング。映画を観ている我々の気持ちを代 弁をする。


「レフェリーごと倒しちまえ!」とマネージャーのハリーが叫び、ドールズがレフェリーをぶん殴る。

負け組みを勝つのを快く思っていなかった人間も、ドールズた ちの試合とハリーの演出に魅せられて、応援してくれる味方になっていく。最後はレフェリーも、その空気に流されて、3カウントをとってしまう。

夢を叶えるためにでも、生活のためにでも、何かを成し遂げるためにでも、生きるということは、気が狂いそうな現実に直面することだ。

時にはドロに 塗れながらも、いつ止まるかわからないボロ車の中で、笑い飛ばしながら前に進んだカルフォルニアドールズの姿は、気が狂いそうな現実しかない明日を生きる 希望を与えてくれる。

「カルフォルニア・ドールズ」は権利の問題で日本ではDVD化されていない。

しかし、多くの人がこんな30年前の映画を観るために、劇場に何度も足 を運んでいる。どんなに時代が進んでも、ドールズ達の生き様は決して色あせない。普遍的に愛される映画である「カルフォルニアドールズ」は素晴らしいと改めて思った。

「LOOPER/ルーパー」は新しいSF映画への序章である。フルーチェも、相容れない要素を混ぜたことでできたんだ!という激励。

「ルーパー」を観ました。ルーパーと呼ばれる殺し屋(ジョセフ・ゴードン・レビット)が、30年後の未来からタイムトラベルしてきた自分(ブルース・ウィ リス)を殺そうとするお話でした。いろんな要素を取り込みすぎて、最初と最後で全く違う映画になっている不思議な映画でした。

ルーパーの詳しい設定はこちら(頼まれてもないのに】複雑すぎる「LOOPER/ルーパー」の設定を勝手に纏めてみた。【勝手に宣伝】

 


『LOOPER/ルーパー』予告編


突然ですが紅茶の種類に「ミルクレモンティ」は存在しません。何故なら紅茶にミルクとレモンを入れると、ミルクのたんぱく質がレモンの酸と合わさってしまい、固まって分離、結果、沈殿物が発生するからです。


カクテルを作るときみたいにフロートして層を作って混ざらないようにすれば何とかなるかもしれないけど、そうしたとしても、飲み始めと、飲み終わりでは明らかに味が違う飲み物になってしまいます。


まさに「ルーパー」はそんな映画で、ドライな近未来SFで始まったと思ったら、急にウェットなヒューマンドラマになる。前半はすっきりしたレモンティで、後半が甘ったるいミルクティみたいな。そんな「ミルクレモンティ」のような映画が「ルーパー」なのです。

 

 


この文章を書く前、いろいろ考えて、僕の頭の中にミルクティとレモンティを一緒にしないで、別々で注文したらよかったんじゃないのか…。という懸念がわきました。
スターウォーズみたく3部作で展開をすることで、ミルクティ、レモンティと別々に味を楽しめたはずだ。結局はフルーツの酸味と、乳製品は相容れないものだったのだ。と。


…。


皆さん、忘れてはいませんか?

「フルーチェ」の存在を。ミルクのたんぱく質と、フルーツの酸味によって、生まれたケミストリー「TORO☆MI」を。

ご存知ですか?

「フルーチェ」の「TORO☆MI」は「ミルクレモンティ」を作ったときに出る、あの沈殿物と同じものだということを。

そう、あの沈殿物、あの「TORO☆MI」が「ルーパー」の魅力なのです。

…。


「おいちょっと待て、急にレモンティが、フルーツに変わっているぞ!」というご指摘ありがとうございます。

皆さん。僕がわざわざ「『ルーパー』の レモンティがタダの液体ではなかった、タイムトラベル要素が、近未来描写がタダの今までの踏襲ではなかった」と言うために、フルーツと言い換えたことをお 気づきではない?

 

そうルーパーは、従来の近未来SF(レモンティ)とは、全く違う方向性の近未来描写、タイムトラベル描写なのです。まず、レモンティが完全加工さ れていなくて、フルーツのままであるという部分の説明から。

このルーパーの舞台である2044年は人類が考えるのをやめてしまった世界、新たな発明をするのをやめてし まった世界なのです。だから、登場する銃や車は過去の技術の使いまわしや、継接ぎでできています。

考えるのをやめてしまっていることは、何かの偶然でタ イムマシンが開発される2074年も共通で、完全に規制だらけの社会です。タイムマシンも危険だからということで、開発後、研究は一切されていません。

こ の世界ではタイムマシンは犯罪組織がその流用品を、危険を顧みずに、(人を殺すと直ぐばれるという)未来の厳しい規制から逃れるために使っているだけとい う設定になっています。

また、タイムトラベル描写もかなり面白い描写で、前触れも何もなく急に人間が現れるという絵的に新鮮だけど、リアルな描写で、本当にタイムトラベルがあれば、こうなるのかと納得させられる描写でした。


レモンティを加工する前のフルーツのまま使用するように、近未来描写もタイムマシンも、今の世の中の延長上、固体(フルーツ)を液体(レモンティ)にするような劇的な進化は一切ない世の中なのです。

これがこの映画が持つ魅力に繋がっています。


今までの「ブレードランナー」や「ターミネーター」ではレモンティだった近未来描写は、「ルーパー」でフルーツになったということがお解かりに なったと思います。

では、このフルーツ(特有の近未来描写)をミルクにぶち込んだことで生まれた「TORO☆MI」とはいったい何なのか。それを説明して いきたいと思います。


この映画はもちろん全てがフルーチェではないということはわかっていますよね。

ルーパーは、あくまで「ミルクレモンティ」であり、フロート技術で重ねられたレモンティ (フルーツ)とミルクティの中間地点がフルーテェになっています。

 

ルーパーの中間地点、ドライな近未来SFとウェットなヒューマンドラマの中間地点は、未来から来た自分(ブルース・ウィリス)と現在の自分(ジョセフ・ゴー ドン・レビット)が対面する場面です。

 

この二人が、同一人物のはずなのに、全く相容れない存在であるという部分がフルーチェ的新しさ「TORO☆MI」なの です。

ブルース・ウィリスとジョセフ・ゴードン・レビットを同一人物であると、特殊メイクと演技、そしてモンタージュ描写で端的に描かれた回想で段々はハ ゲていくという部分で、暴力的な説得力を持たせているのですが、明らかに別人なんです。

 

技術の限界という話ではありません。ブルース・ウィリスのジョーは自分の奥さんへの想いが彼の存在意義を定め、ジョセフ・ゴードン・レビットのジョーとは全くの別人になってしまっているのです。

彼ら二人は別人なんです。

にもかかわらず、過去と未来の自分は全くの別人なのに、過去 と未来の自分が逃れられない因果で繋がっています。未来の自分は過去に縛られてしまうというその普遍的な理不尽さを観ている人は感じ取るのです。

 

これが「TORO☆MI」です。「TORO☆MI」があるからこ そ、ヒューマンドラマパート(ミルク)の過去と未来の主人公それぞれの行動に深みが増します。

 

そして、ジョセフ・ゴードン・レビットのジョー、現代のジョーも自分の存在意義を掴みます。存在しないことが存在意義というのも皮肉なものですが、でも、僕たちは「TORO☆MI」を知っているからこの最後の決断に感動できるのです。


たぶん僕が一切何を要っているのかわからないと思いますけど、観ていただいて、ルーパーの中にあるフルーチェ的「TORO☆MI」を「ミルクレモンティ」の新しい味を感じていただければと思います。

そして、このルーパーをヒントに、完璧なフルーチェのように整った映画が生まれることを切に願います。

『96時間』のリーアム・ニーソンと、ライダーマンの“哀愁”の違いは「ポルノであるか、そうでないか」であるという指摘。

「96時間」観ました。『さらわれた娘をクソ強い親父が取り返す映画』でした。

 


映画「96時間」トレーラー


観ている最中にコマンドーを思い出しました。だから、「深く考えたら負けかな」と考え、考えるのをやめました。細かい指摘をしだすとキリがないというか、その雑さ(ノイズ)でさえ魅力に感じられるはずだと考えたからです。


この映画の雑さが魅力になる理由は、「物語の強い推進力」と「スピード感」だと思います。

『仮面ライダーSPRITS』でライダーマンが、オー バースペック改造を施させたライダーマンマシンで瀬戸大橋を渡った時の感覚が近しいです。

時速500キロを超えるまではライダーマシンが不安定でしたが、 それを越えた瞬間に安定するのです。「96時間」という映画は「物語の強い推進力」によって500キロ以上のスピード感を観客に体感させます。

それ以下の スピードなら気になる物語の雑さが、「96時間」「コマンドー」クラスの推進力になると全く気になりません。むしろそれが心地いい。

ライダーマンは500キロを超え、600キロも超えるのかと思ったとき、敵の妨害に遭いバイクが大破、その後、助けに来た仮面ライダーZX(ゼクロス)のバイクの後ろに乗り、そのバイクが600キロを越します。


ライダーマンが一生懸命頑張ったのに、最新のライダーであるZXは、いとも簡単にその600キロの壁を越えてしまいます。あの時のライダーマンの哀愁漂う表情が忘れられないのですが、まさに、リーアム・ニーソンはそんな顔をしています。

リーアム・ニーソン演じる主人公ブライアンは、妻に離婚され、最愛の娘も再婚相手と住んでいます。再婚相手は裕福な金持ちです。

ブライアンが最高 のセンスだと思って選んだ娘への誕生日のプレゼントが、一瞬で再婚相手の規格外のプレゼントによって、娘の心は一気にそちらに持っていかれた、あの時。あ の時の顔は、ZXに、いとも簡単にその600キロの壁を越えられたときのライダーマンの顔なのです。
ライダーマンは願ったはずです。ああ、活躍したい。V3だけじゃない。全てのライダー(平成ライダーも含む)を見返したい。その彼の願望がリーアム・ニーソンに憑依した映画、それが96時間なのです。

慎重なリーアム・ニーソンは、娘がパリに行くことに「ティーンエイジャーの女の子2人だけで、パリ旅行なんて危険だ」とはじめは反対しましたが、 離婚した妻の説得もあり、定時連絡を入れる事を条件に許します。

しかし、彼の忠告虚しく、娘は人身売買組織にさらわれてしまいます。何もできない妻とその 再婚相手、ライダーマン的に言えば1号、2号、V3やアマゾン、そしてZXがボロボロにやられ、V3がさらわれる展開です。

「96時間」で語られる物語 は、さらわれたV3を助けるために、他のライダー達が叶わなかった相手と、ライダーマンが奮闘するようなことなのです。

ライダーマンが活躍し、V3を助ける話を勝手に妄想すると、たぶん他のライダーにはない彼特有の“知力”“あくまで普通の人間であること”を活か すと思うんですね。

そして、その作品は彼の哀愁ある風貌とあいまって、深い作品と評価されると思います。

リーアム・ニーソンも、妻の再婚相手にはない力を 発揮します。

ただし、“純粋な武力”ですが。

 

ライダーマンと、リーアム・ニーソン(96時間)の明らかな違いはここなんです。

リーアム・ニーソンとライ ダーマンの哀愁があいまって、とても作品が深く見えるんですけども、96時間に存在するのは純粋な暴力だけなのです。

勘違いしないでほしいのは、僕が純粋な暴力で物事を解決する作品が悪いといっているわけじゃないのです。

あくまで、「純粋な暴力で全てを解決して しまう、この映画は純粋なポルノだ」と主張したいのです。それを踏まえたうえで、「ああ、ポルノさ、純粋に俺はポルノを楽しんでいるんだ!」と艶々した顔 で主張するのが、この映画に対する正しい姿勢だと思います。


AVを観て妄想を膨らませた童貞が、本番で失敗するように、この映画を観て、リーアム・ニーソンに憧れたオヤジが全てを暴力で解決しようとしないかを懸念しているのです。
ああ、杞憂ですか、そうですか。ライダーマンが知力と人間力を駆使しないとデストロンに瞬殺されますからね。本当に気をつけてください(失礼)。

夫婦倦怠映画のススメ。「ブルーバレンタイン」を観て人生の予習をしよう。

付き合い始めたラブラブカップルにプレゼントするというテロ行為を行ないたい。「これを観て、どう思ったのか、二人で話しあってね」なんて言ってね。

 


映画『ブルーバレンタイン』予告編


このお話。

妻と娘ラブの家庭が一番大事、社会に適合するとかどうでもいい型、「夫」と、

正看護師の仕事と家事をこなすキャリアウーマンな、「妻」が、

すれ違って離婚するまでを描いた作品。


『500日のサマー』と同じ構成で、結婚している夫婦が壊れるまでと、結婚するまでを対比して描くという“鬼畜の諸行”で描かれる作品。

恐ろしい までのリアリティと非常に洗練されたギクシャクした夫婦の会話、しぐさの描写は見てるものを居た堪れない気持ちにすることは間違いない一作。

多くの人が自分の恋愛や結婚に引き寄せて語る。

「『妻をラブホテルに誘う作戦』を永久に実行することがなくなりました」

「結婚したら負けだと思うようになりました」

と夫に共感するネガティブ男子続出。
また、ヒロインの「初体験は13歳、経験人数が20人」という恐怖の回答に童貞たちは「ただのビッチ映画だった」と主題とずれた反応を示す始末。

じゃあ、お前の立ち居地はどうなんだ?

と問われると。それは私は女性の味方。

わりと奥さん側の立場に立って観ていたと思います。

ラブホテルの予約 時も「奥さん仕事で朝早いって言ってんじゃん、何勝手にラブホテル予約しちゃってんの」と思ったり。

 

車の中での喧嘩も「何?コイツめんどくさッ」とドンド ン嫌いになっていき、ラブホテルでの旦那の「子供ほしい(●´ω`●)」発言に明らかに顔つきが変わった奥さんに「ですよね~」と共感する始末。


どうやら、私「働かざるもの食うべからず」という価値を持っており、家族とか大事にするとかいって、「ダラダラ酒のんで働いているお前が調子こいてんじゃねぇぞ、家事もしてないわけだし」と思ってしまうわけですよ。(誰だ!お前が言うなって言った奴)


しかも、その後、奥さんの職場にのりこんで行って無茶苦茶する訳で、「何この人?何なの?信じられへん」と「うっわ」感に苛まれたわけですね。

このままじゃ夫、超悪者じゃないですか。

実はこの現在壊れていく描写と交互に語られる、結婚までのラブラブだった時、これがミソなんですね。

実はこの夫、娘が自分の子じゃないのに、認知して、出会ったばかりの一目ぼれした奥さんと結婚してるんですよ。


「やっぱりバカだ」とお思いになったかたもいらっしゃる。

が、奥さんあんたそれで良しとして結婚したわけじゃないですか。

というか、自分の子じゃない子を妊娠した女性と結婚するなんて、幼稚なヒーロニズムを持っていたとしてもとてもできたもんじゃないですよ。


「お前、スゲェな」

と私はここでこの夫に「何とも言えぬ敗北感」感じを悔しくて泣くという変な状況になったわけなんでございますよ。

で、

「俺に勝っ たんだから、お前ら幸せになれ……」という気持ちと

「やっぱりこういう幼稚なヒーロニズムに酔う奴は理想を語り、それを決して曲げないよね、どんなに居た 堪れない状況にあったとしても、ああ痛々しい」という気持ちが

せめぎ合い、「ラブホテルでの旦那の「子供ほしい(●´ω`●)」発言を思い出したりして、

 

「いろいろ考えたんだけど、貴方はやっぱり、歪んだヒーロニズムを持ったバカだったんだね(´A`。)」と思い、

今までの結婚生活全てを、楽しかった結婚 生活すら全てを否定したくなった奥さんとシンクロしてしました。

最後の「幸せだった生活のエンドクレジット」を観て、「ごめんなさい」となってしまった 人、それが私。なわけです。

これからいろいろ経験すれば、もしかしたら立ち居地はかわるかもしれませんが、

「ひとえに何が幸せなのか…自分ですらぶれるし、解っていないの に、それを他人に求めるのはどうなのか」

という思いますし、この夫婦が問題だと思うのは、お互いに歩み寄る姿勢が全くなく旦那は奔放に、奥さんは我慢して 最後爆発という流れなわけですな。

じゃあお互いに歩み寄って、こんなどうにもならない状況になる前に喧嘩してでもお互いの気持ちを伝い合える事が大切。

み たいな結論でしめると。

「人間本来、事なかれ主義だから無理!、わざわざ火種を作るって事でしょ。そんな上手く行くわけない!」

 

なんて反論が出てくるわけ で、まぁ締まりませんな。

もういいです。