チキチキ!火種だらけの映画評

映画のネタバレ記事が多いと思います。私の映画の趣味をやさしい人は“濃い”といいます。

「人を殺すこと」で自分を解放する?鬼才!韓国人監督パク・チャヌクの『イノセントガーデン』の衝撃

■あらすじ

インディア・ストーカー、18歳の誕生日。彼女は「何か」を探していた。毎年彼女には同じデザインの「靴」が送られる。その「靴」を探しているのだ。今年は少し様子が違った。「靴」の他に鍵が入っていたのだ。

 

 その日、18本のロウソクが立ったケーキは食べられることはなかった。なぜなら、インディアの父親が亡くなったからだ。葬式では父親の死が不審であるという噂が立つ。聴覚を始めとする感覚が優れたインディアには小さな声でも耳に入ってしまうのだった。

 

 父親がいなくなり母親とインディアだけになった家に、ずっと行方不明になっていた叔父が住み着くようになった。葬儀の日にひょっこり帰ってきたのだ。

 

 叔父は完璧な存在で魅力的だが、彼が来てから不思議なことが連続する。家政婦は急に行方不明に、彼の過去を知っている叔母も連絡が取れなくなった。

 

 孤独なインディアを唯一理解してくれる彼に対して共鳴していくと同時に、湧き上がる疑惑。このときは彼女自身の中にも叔父と同じ魔物が存在するとは夢にも思わなかった。

 


映画『イノセント・ガーデン』予告編 - YouTube

 

■無垢とは何か

 

無垢とは何か。

別に邦題である「イノセントガーデン」が秀逸だと思っているわけではありませんが、この映画が「無垢な少女が殻を破り、一人の女になる話」なので、始めの状態、つまり無垢(イノセント)が何かと考える必要があると思います。

 

辞書的にいうと「純粋で穢れないこと」が無垢みたいです。

わかったようで、わかりません。そもそも、何を基準にして「純粋」だったり、「穢れ」って言葉を使っているのかがわかりません。そんな頼りにならない辞書に変わって僕が「イノセントガーデン」においての無垢(イノセント)を定義します。

「1.両親から与えられた体、心、そしてそれを着飾るものだけで形成されている状態」

「2.転じて、何ものでもない状態」

 

が無垢(イノセント)。

 

そしてその「何ものでもない」無垢な状態に「穢れ」として、外的な情報、社会、他人を与えることで、映し鏡のように自己を認識することができます。

 

食べ物でも食べて初めて好きだとわかる。映画でも観て初めて好きとわかる。それが自己を形作ります。その結果「何か」になる。得体の知れない「何か」に。

 

■「少女と女」の中間地点の描写について

 

「無垢な少女が殻を破る」という描写が小さな伏線として、映画の中に散りばめられています。

殻を破られる“卵”が、直接的なものから、彼女の住む家、木からぶら下がる遊具のデザイン等、抽象的なものまで存在します。また、“虫刺され”を絞り、透明な液を体から出す様。血のついた鉛筆削りを削る様。その様子を執拗に写し、彼女の中の「得体の知れない本性」が殻を破ろうとしていることを予感させます。

 

そして、外的情報は「靴」です。靴は外に行くために欠かせないもの。叔父の「チャーリー・ストーカー」は「靴」を送ることでも彼女の殻を外から破る手伝いをしていたのです。初めて「靴」を送った16年前から。

     ◇

この映画で、普通のカットバックと、特殊なカットバックを使い分けているのも「少女と女の中間地点」に立ち安定しないことを作り手は伝えたいのだと思います。

 

まだ無垢な少女で安定段階にある状態、「靴に囲まれて彼女が寝そべるシーン」では“だんだん”に彼女の「靴」が小さくなっていきます。

「小さな頃から靴が送られている」。つまり「彼女の殻を破るため、小さな頃から外的情報が与えられている」という情報を画面から得られます。これが3→2→1と情報を与える普通のカットバックです。

 

一方で「彼女がシャワーを浴びるために服を脱ぐシーン」は特殊なカットバックを使用しています。2→1→3と順序が滅茶苦茶なのです。このカットバックの使い分けにより、シャワーシーンの時点で彼女はもう「少女ではなく女に移行している中間地点だ」と観客に認識させる狙いがあると考えられます。

     ◇

 またもう一つ印象に残るシーンは押さえきれない欲望に身を任せ、たまたま会った同級生の男を誘った、森の中の公園のシーン。同級生の男からの視点と同調したカメラは公園の遊具に乗る彼女を捉えます。

 

 彼女がグルグル回転する遊具に乗っているのですが、足元の遊具をフレームアウトさせることで、まるで彼女が幽霊など超現実的な存在のようなのです。

そして、滑り台の最も高いところに登り、見上げた男の視点…カメラは月を背にする彼女を捉えるのです。

 

 彼女がその同級生の男とは違う次元を生きている超現実的な存在になってしまった。そういうことを映画的に表現しています。

 

■「疑惑の影」の影

・「疑惑の影」にあったもの

パンフレットでも指摘されていますが、この映画の脚本はヒッチコックの「疑惑の影」を下敷きにしているようです。

 

主人公のインディア・ストーカーとチャーリー・ストーカーは、叔父と姪の関係です。

叔父のチャーリーは、インディアに毎年「靴」をプレゼントしてきました。その「靴」が『イノセントガーデン』の物語を転がす「キー」となります。

ヒッチコック風に「マクガフィン」と言うべきでしょうか。『疑惑の影』での物語の「マクガフィン」は『知らないイニシャルが刻まれた指輪』。叔父から姪へのプレゼントです。

 

『疑惑の影』に登場する姪は「チャーリー・ニュートン」、叔父は「チャールズ・オークリー」。他の家族が二人を同じ“チャーリー”を呼ぶことで二人と、他の登場人物に明瞭な線引きがされています。

 

一方で『イノセントガーデン』も、姪「インディア・ストーカー」と、叔父「チャーリー・ストーカー」は原題でもある「ストーカー」という姓という共通点を持っています。

 

     「疑惑の影」になかったもの

しかし、その線引きだとインディアの母親である「イヴリン・ストーカー」も、その区分に含まれてしまいます。

そこでこの映画では、より強固な叔父と姪の繋がりを作り上げたのです。その繋がりは「容姿」です。

「インディア」を演じたミア・ワシコウスカの金髪を黒に、青い瞳を黒に。「アリス・イン・ワンダーランド」に出演した時とは別人の様。ポイントを押さえ、「チャーリー」を演じるマシュー・グードに「容姿」を近づけたのです。

その間に「イヴリン」演じる“金髪で青い目”の二コール・キッドマンを配置することで、叔父と姪の関係性を際立たせています。

 

     人が「人を殺した」後に未来はあるのか

 

ヒッチコックの『疑惑の影』では姪は叔父を殺します。姪は複雑な心境で叔父の葬儀に出席、そこで映画は終わります。

『めまい』でもジェームズ・スチュワートは、その妄念ゆえ故意ではないにせよキム・ノヴァクを殺し、そこで映画が終わります。「人」を、自分にとって大きな存在を、「殺す」。

 

殺してしまった人間は、殺したことに心囚われ、彼女(彼)自身の時は止まってしまいます。それは彼女(彼)の物語の終わりを意味します。

 

『イノセントガーデン』を観たとき衝撃だったのは、「人を殺した」ことによって解放されたということです。

インディア・ストーカーは、チャーリー・ストーカーを殺すことで、彼女の欲望を縛る「無垢であること」から解放されたのです。

ヒッチコックの『疑惑の影』を下敷きにしているのに、それとは全く逆の構造をもっています。インディア・ストーカーの物語はこれからも続くのです。きっとこれから多くの人を殺す。この物語はその一部が切り取られたに過ぎないのです。

 

別に映画で「人を殺す」ことを良いこと、悪いことで論じる気は更々ありません。そもそも「人を殺し、これからも殺し続ける」であろう主人公が登場する『パフュームある人殺しの物語』を人生ベストに挙げている自分には何もいう資格はありません。

 

ただ、それが、ヒッチコックが映画を作っていた1920~70年代より描写として許容されるようになった。と改めて認識しただけです。