演劇「て」評:『桐島部活やめるってよ』の映画部顧問が本当に自分の半径1mを描いていた件について
「桐島、部活やめるってよ」の映画部顧問。「自分の半径1mをテーマに映画を撮れ」と前田君に言って、「桐島、部活やめるってよ」を観た全ての人間から顰蹙を買ったあの先生は、本当に自分の半径1mをテーマに脚本を書いていた。
この先生を演じる岩井秀人さんは、劇団「ハイバイ」の旗揚げ人。
つい先日「ある女」という戯曲で第57回岸田國士戯曲賞(演劇界の芥川賞と呼ばれているらしい)を受賞した新鋭の劇作家で、演出家で、俳優だ。
そんな彼が自分の半径1mを描いた作品が「て」なのである。
■あらすじ
とある家族の物語。
兄の太郎、姉のよしこ、次郎。妹のかなこを除いて彼らは父親に暴力を奮われていた。中学生のとき「将来何になりたい?」という問いに答えられずに太郎は木刀で、よしこはゴルフクラブでぼこぼこに殴られてた。
そんな状況だったものだから、次郎は独立してから家に寄り付かなかった。よしこもそうだったのだと思う。
そんな、よしこが「山田家皆で集まりたい」と提案したのは意外だった。
「帰るよ。家族だけの集まりなんでしょ?」と申し訳なさそうに前田が切り出す。
次郎は「いや、いいって大丈夫」と切り返す。
次郎の実家である“山田家の集まり”、それに出席するために次郎は久しぶりに実家に帰ってきたらしい。友達の前田を連れて。
“山田家の集まり”の会場は「おばあちゃんの家」。次郎の実家のすぐ近くにあるようだ。久しぶりにおばあちゃんの家に訪れた次郎は、すっかりボケてしまったおばあちゃんの相手をする。
そして、おばあちゃんの家を自分の兄が私有化していることに気づくのだった。
おばあちゃんの家にやって来た兄。おばあちゃんが話すことがボケていて事実と違うことを指摘する。
「わざわざそんなこと言わなくてもいい」と兄に注意する次郎、そして兄がおばあちゃんの家を私有化していることも重ねて注意する。
しかし兄には話が通じないし、何か逆に文句を言われることに腹を立てているようだ。そこに姉と母が現れ、事無しをえる。
この1時間後に山田家の集まりは開かれる。もちろん父も交えて皆で。
■物語を2回繰り返す意味、母親の視点、次郎の視点
この演劇「て」は、この脚本を書いた岩井さんの経験に基づいている。
岩井さんは、この家族のなかで次郎だ。彼の父親が奮う暴力に脅えな がら育った兄弟3人は、今はバラバラだ。末妹は全くそのような理不尽な仕打ちを受けていないが、そのことに対し疎外感を覚えている。
あらすじで説明したように次男の次郎は、長男の太郎に対しても不満を持っている。実際に岩井さんは、この脚本を書いたとき父親と長男をとことん悪者にして「こんな悪いやつがいるんだ!」と知らしめたかったらしい。
その復讐のために母親にインタビューをすると父親は最低だったけれど、長男は違ったという話が出てきた。
おばあちゃん子であった長男 は、おばあちゃんが認知症を受け入れられず、おばあちゃんに酷いことを言っていたこと。おばあちゃんをとても大切にしており彼が一番おばあちゃんの世話をしていたという事実を岩井さんは知った。
なんだ兄ちゃん悪いやつじゃなかったんじゃないか…兄を悪者にする復讐劇は作れない。このようなやり取りの結果、「て」は自分自身の次郎の視点と、母親の視点の2面構成で描かれることになった。
母親は偉大だ。この演劇を観てそう思った。長男、長女、次女は、次郎視点のパートではみせない面を母親視点で描かれるパートでみせる。 長男がおばあちゃん子であること。長女が嫁入り先でトラブルを抱えていること。そして、ポッキーが好きなこと。次女が歌うことにプライドを持っているこ と。それは母親パートでしか描かれない。
次郎が見ていた山田家は断片的なもので、彼の思い込みによって歪められていたのかということが母親視点のパートをみることで、どんどんわかっていく作りここが巧みだと僕は思った。
■映画と演劇の違い
「演劇だからできること」は、どうでもいい。
と岩井さんは終わった後の座談会で言っていたけど、演劇だから存在するものに僕が「グッ」と来たのは間違いない。
演劇だから存在するもの。それは舞台変換である。
映画ならばシーンとシーンの間に、何か違うシーンを挟めば時間を飛ばせる。最悪「2時間後」とか「2年後」とか字幕でも入れればいい。お手軽だ。
しかし、演劇はそれができない。
なぜなら演劇は演じている瞬間と、演劇を観ている瞬間に時差が全くないからだ。
そのためシーンとシーンの間には舞台変換をしなければならない。演劇はそれがネックだ。
それは無くすためにどうするか?
全てを1シーンにする。それも一つの手だろう。潔く暗転して黒子が急いで舞台変換する。それもありだ。
■回想シーンを演劇でやるには
「て」では全く違う手段をとっていた。
この演劇のプロローグは葬儀のシーンから始まる。
岩井秀人さん演じる喪主の母の一言。
それに続く神父の説教。
ふむふむ、この葬儀の主役、今回亡くなった菊枝さんと、神父は因縁めいた何かで結ばれていたのかな?
と神父の説教を聴いていると、急に舞台の後ろのほうにいる人物が「考えられない!」と声を発するのだ。
おうおう、修羅場か?さっそく修羅場か?と思いきや、彼の声は神父に聞こえず、隣にいる人物が反応するのみである。
この二人の会話が少し続き、神父はまた話し出す。もう一度同じ二人の会話が続いた後、さらに近くにいた女性二人も会話に加わる。「あの時、本当にびっくりしたよね」。ああ、なるほど、神父が話している瞬間と、後ろの二人とその近くの女性二人は違う次元を生きているのだな。
要するに彼らは葬式を思い出しながら、皆で話しているんだ。
映画だったら、編集ができる。だから、今話しているシーンと、過去を思い出すシーンは、回想シーンとして明確に区別できる。
しかし演劇はそれができない。
じゃ、いっその事、「違う時制のものを同じ舞台の上に存在させるので、観客はそれが別次元のものだと理解してね」と開き直った。その結果、違う時制が同時に舞台の上に混在する奇妙な空間が出来上がった。
■男がおばさんを演じるということ
そもそも、しれっと書いたけど、岩井秀人さんは何で女装してるの?
これには岩井さん自身が答えていた。
「おばさん役に、おばさんを配置しても、真のおばさんには見えない」。
すいません。全く意味がわかんないです岩井さん。
後に岩井さんがわかりやすく説明してたことを要約すると、
おばさん役を男がやることによって、観客側が自分で男とおばさんという差異を埋めようと想像する。
その想像はどこから引っ張ってこられるのかというと、自分の経験である。
つまり、このおばさんに、観客は自分の経験上、一番ベストなおばさんを勝手に当てはめるのである。
それが自分の母親なのか。それともドラマや映画で観た人物なのかは人それぞれなのかもしれないけど、実際に舞台にいるおばさんより、よっぽどクオリティの高いおばさんを観客に届けることができる。
ということらしい。
因みにおばあさん役も若い女優さんがやっていますね。
「おばあさんをおばあさんが演じると皆心配になるでしょ。」岩井さんは説明されていました。
なるほど。
「でも、僕自身がおばさんを演じたいってのが一番なんですけど。」
全てを台無しにする発言ありがとうございます。
■なぜか感動してしまう演劇的な作り手の嘘
プロローグ、おばあちゃんの葬式を回想シーンと始めの方で説明したけど、全く違う説明も出来る。
その場のリアルを超えた、超現実的な無意識が登場人物から漏れ出して、葬式の最中に登場人物同士で話を始めてしまったという説明だ。
あの会話の最後のほうには父親も、太郎も、参加している。
あの家族が、(太郎はまだしも)父親を含め、あの葬儀の後にまた一緒に葬儀を思い出しているなんて考えられない。
少なくともあの葬儀が終わった段階では。
あのシーンには、超現実的な無意識、存在してほしい未来、作り手の「こうだったらいいなぁ」いう思いが込められているのではないかと僕は思う。
その真骨頂は母親が父親のリバーサイドホテルを部屋の外で聞くシーンだろう。次郎の視点で中で起こっていることが語られているので、絶対母親の目の前で行われている現象は嘘であるとわかる。
しかし、喧嘩ばかりしていて、絶対に一つにならない家族が一つになったように見える明らかな嘘の瞬間、僕は涙を流していたのだ。
おばあちゃんが亡くなるシーンでは、おばあちゃんの魂は部屋から去っていった。
おばあちゃんを演じる若い女の人がベッドから立ち上がり舞台を去った。あれを成仏した瞬間と誰もが思ったはずだ。
魂だけの人間を観客に観せるのだから、超現実的な無意識、存在してほしい未来、全て観客は受け入れると信じて作り手は「て」を作っている。
■おわりに
いろいろ偉そうに書きましたが、僕はこの「て」が演劇初体験なので、演劇リテラシーがほとんどありません。(えっ!今、それ言うの)
なので、こんな戯言よりも本編をぜひ観て頂きたい。
とりあえず劇団「ハイバイ」のホームページを貼っとくので(http://hi-bye.net/)興味ある人はどうぞ。
DVDも買えるってよ。