チキチキ!火種だらけの映画評

映画のネタバレ記事が多いと思います。私の映画の趣味をやさしい人は“濃い”といいます。

『アベンジャーズ/エンドゲーム』は男の体裁が敗北する物語である(後編)

 

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』で描かれたソーとサノスは、「運命の意志」「おのれの意志」の違いはあれど、どちらも独りよがりな物語を紡いだという点では、同じ欠陥を抱えている。

 

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前編はそんな感じのことを言って締めた。

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アスガルドの民を守れなかったソー、惑星タイタンで小さな犠牲を払ってでも星の滅亡を防げなかったサノス。二人の物語の根底には過去に犠牲になった人々の死がある。

 

ロケット「弟が死んだって? やりきれねえよな」

ソー「前にも死んでる。ただ今回は本当らしい。」

ロケット「姉さんと親父さんも?」

ソー「死んだ」

ロケット「母親はいるだろ?」

ソー「殺された」

ロケット「親友は」

ソー「心臓をグサリ」

ロケット「今回の任務は殺しだぞ。平気か?」

ソー「もちろん。怒り。復讐心。喪失感。後悔。全てが俺を突き動かしている。やってやるさ」

ロケット「けど相手はサノスだぞ。あいつは最強の敵だ」

ソー「俺の敵じゃない」

ロケット「負けたろ?」

ソー「次は勝つ。新しいハンマーで」

ロケット「ハンマー頼みってか」

 

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』のソーとロケットの会話。ロケットの「ハンマー頼みってか」という指摘に対してソーは不安を押し殺すように強がって「自らが運命の意志に選ばれた存在」であることを語る。

ソーは、死んだ人たちへの喪失感を埋めるために、「王の武器」ストームブレイカーでサノスを打ち倒す復讐の物語に縋る。その悲壮の物語は、ガモーラを犠牲にしてでも野望(自らの物語)を遂行したサノスの物語と同じものである。

ソーは、喪失感を怒りに変え、その矛先をサノスに向けた。結果は前編に書いた通り、サノスに力で上回ること(自らが運命の意志に選ばれた存在と示すこと)にこだわるあまり、サノスの野望を止めることは叶わなかった。

 

彼らふたりに共通するのは、おのれの喪失感に直接向き合うことなく、喪失感を行動の原動力に変えてしまっていることだ。

 

「大切な人が死んだ」という事実は、本来はどう足掻いても解決することはできないことだ。

「自分が行動しなかったことが原因で大切な人を死に導いた。後悔の念に囚われてしまって今までと同じように生活が送れない」

「誰か自分ではない別の人物の行動が、大切な人を死に導いた。憎しみの感情囚われてしまって今までと同じように生活が送れない」

 

サノスとソーは『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』において、これらの問題を抱え、その解決のために

「二度と後悔しないように行動し続ける」

「憎しみの感情のままに報復行動に出る」

といった行動に出る。

 

惑星タイタンで「おのれの意志」を貫けなかった過去に縛られて、宇宙の生命の半分を消滅させるおのれの物語を貫いたサノス。喪失感を怒りに変換することを推奨する「運命の意志」に導かれるまま独りよがりな報復行動に出たソー。彼らは二人とも、問題を解決しようと躍起になって、過去の喪失感がもたらす後悔の中に、現在や未来の行動を閉じ込めてしまっているように思える。

 

処刑人ソー、切り落とされたサノスの首

アベンジャーズ/エンドゲーム』は衝撃の展開から始まる。ソーが「王の武器」ストームブレイカーでサノスの首を切り落としてしまうのである。あのシーンを観た瞬間に、何か一線を越えてしまった取り返しのつかないものを感じざるえない。

あのシーンにおけるソーは、さながら斧で罪人の首を切り落とす処刑人。ソーは王の権威を守るため、罪人サノスの首を切り落とす。

前編でも指摘した通り、「運命の意志」が要請している物語は、王(男性)の歴史が紡いできた「体裁」の物語だ。ソーはサノスの首を切り落とすことで「運命の意志」が用意した台本の主人公として、なんとか落とし前をつけることができたが、現代のヒーローの行動からは決定的に逸脱してしまう。

 

無視された喪失感

サノスとソーの問題解決の姿勢は、結局のところ「大切な人が死んだ」ことによる喪失感に直接向き合っているわけではない。ただただマッチョな独りよがりな強がりと憎悪の感情を連鎖させてしまっただけだ。

アベンジャーズ/エンドゲーム』では、このサノスとソーの問題解決の姿勢を踏まえた上で、「大切な人が死んだ」ことによる喪失感に直接向き合う問題“解消”の姿勢を描いている。

この問題“解消”の鍵を握るのが、タイム泥棒作戦であるということをこれから述べていこう。

 

アベンジャーズ/エンドゲーム』はどんな話なのか

アベンジャーズ/エンドゲーム』は、ヒーローたちがタイムマシンを使って過去に戻って、現在では破壊されてしまったインフィニティ・ストーンを集め、サノスによって奪われた生命を取り戻す話である。

物語の鍵を握るタイムマシンはトニー・スターク(アイアンマン)が開発。アントマンの「ビム粒子」を用いて量子レベルに小さくなり、過去から未来へ時間が一定に流れない(とされる)量子世界に発生させた過去へのワームホールを潜るというものである。ただ本論で筆者はこのタイムマシンが理論上可能かどうかとか、そういうあれこれに立ち入る気はない。

本論で注目したいのは、タイムマシンが、トニー・スターク(アイアンマン)の開発したものであることと、奈落へ抜ける構造になったタイムマシンの、土俵状の装置の上に、ヒーローたちが円状に陣を組んで、それぞれの顔を見合しながら過去へ向かうことである。

 

円状に陣を組んで、それぞれの顔を見合しながら過去へと向かう行為と聞いて、わたしは『アベンジャーズ/エンドゲーム』のあるシーンを連想した。

ティーブ(キャプテン・アメリカ)、そして市井の人々が車座になって監督のジョー・ルッソ演じる人物の語りに耳を傾けるグループセラピーのシークエンスである。

彼らがやっているグループセラピーは「グリーフケア」と呼ばれる取り組みで、大切な人の死など、受け入れがたい出来事を経験したもの同士で車座を組み、ひとりひとりの喪失の物語を語り合い、過去のトラウマに向き合う試みである。

筆者の主張はこうだ。

アベンジャーズ/エンドゲーム』における過去へのタイムトラベルは、このグループセラピー、過去の記憶に対する解釈をやり直す「グリーフケア」の過程そのものである。


喪失感に向き合う手段「グリーフケア

グリーフケア」は、問題の解決を目指さない。車座になってコミュニケーションを取り、語り手が囚われている雁字搦めの物語を時間をかけて解していく。何度も過去を語り直すことで、語り手を縛る物語に回収されないイレギュラーな語りを見いだす。そして物語の聞き手の協力により、物語の語り手は、自分を縛る物語に対する新たな解釈を得る。この語り手と聞き手のコミュニケーションを通じて、語り手が独りよがりな物語から“解消”されることを目指す。

 

実はこの「グリーフケア」は、ルッソ兄弟の他の映画にも登場する。『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』では、サム(ファルコン)が退役軍人たちのセラピストとして登場。

『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』では冒頭、トニー・スターク(アイアンマン)が、海馬をハイジャックし、過去のトラウマ、殺された両親との最後の会話を引っ張り出し、バーチャル・リアリティを用いて過去をやり直しトラウマを癒す“B.A.R.F.(ゲロ)システム”の実演プレゼンをしている。

 

ルッソ兄弟は、MTVのポッドキャスト“Happy Sad Confused”で『アベンジャーズ/エンドゲーム』公開前にこんなコメントを残している。

「『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2016)には、ある技術についての5分間のシークエンスがあります。具体的な理由があって用意したんですよ。ですから、あの作品を見直してもらえれば、きっと(ストーリーの)方向性のヒントが得られると思います。」

https://theriver.jp/iw-time-travel-theory/(THE RIVERより引用)

 

 

ここで語られるある技術とは、前述のトニースタークが“B.A.R.F.(ゲロ)システム”のことだ。このルッソ兄弟のコメントも、「グリーフケア」が『アベンジャーズ/エンドゲーム』のストーリー、つまりタイムトラベルに大きく関係していることの裏付けとなる。

 

タイムトラベル=グループセラピー

アベンジャーズ/エンドゲーム』におけるタイムトラベルは「グリーフケア」。ヒーローたち同士のグループセラピーである。

タイムトラベルへ至る過程もヒーロー同士が話し合って皆が納得できる物語を構築する過程であった。タイムマシンはトニー・スタークの発明であるが、そのキッカケはスコット・ラング(アントマン)の発案で、トニー・スタークがタイム泥棒作戦に参加する動機として一番大きいのはピーター・パーカー(スパイダーマン)の消失だろう。チームが過去へと至る道をスティーブ(キャプテン・アメリカ)がまるでグループセラピーの司会者のように取り結んでいく。

また、タイムトラベルで何をするのかを考える件もそうだ。サノスが悪事に働く前に殺すなど納得できあに結論は話し合いの中で否定され、チームとして、それぞれの時代からインフィニティ・ストーンを手に入れるやり方が選ばれる。

 

癒されるヒーローたち

アベンジャーズ/エンドゲーム』に登場するタイムマシンは、過去を変えることで『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のように現在が大きく変わってしまうことはない。

しかし過去へのタイムトラベルしたヒーローたちに大きな影響と変化を与える。

トニー・スタークはうまく関係を結べないまま父親ハワード・スタークを失ってしまった。だから父親は自分のことなど意にも介していなかったという青年の頃の感覚を更新できずにいた。しかし今回のタイムトラベルで、現在の(父親になった)自分の目線で、改めてハワード・スタークと接することによって、父親との関係性に対する認識を改めることができた。

「皆、いなくなってしまった」。ひとり取り残された喪失感に苦しんでいたスティーブ・ロジャースは、キャプテン・アメリカがいなくなった過去で、自分を失ったエージェント・カーターもまた、スティーブ自身と同じ喪失感を持っていると気づく。

ティーブがどんなキツい仕事場(激戦地)でも肌身離さずエージェント・カーターの写真を持っていたのと同じように、エージェント・カーターも仕事場(デスク)の上にスティーブの写真を飾っていたのだ。

 

そしてこの話は、トニー・スタークが消失したピーター・パーカーの写真を大切に持っていることにも響き合っている。

 

トニーがモーガン・スターク(娘)の存在を危険にさらし、自らの命を投げ出す覚悟で、ピーター・パーカーの存在を取り戻すタイム泥棒作戦に参加した動機と、第二次世界大戦アメリカ国家のために自分の命を投げだし、ヒーローとして世界を救ってきたスティーブが、エージェント・カーターと歩む一個人としての人生を選び直した動機は、方向性は真逆だが通じるものがある。というよりむしろ真逆な二人、トニーとスティーブが出会い、時にはいがみ合いながらもお互いに影響を与え合ったゆえ、それぞれが、ヒーローとして、一個人として、どのように人生を終えるかを選択ができたと考えるのが妥当だろう。

 

王、または処刑人であることに耐えられなかったソー

そして忘れてはならないのは「運命の意志」を信じられなくなって、すっかり自信喪失し、変わり果てた姿で引きこもっていたソー。そんなソーが動き出すきっかけを作ったのは『アベンジャーズ/インフィニティウォー』で彼と行動をともにしていたロケットと『マイティ・ソー バトルロイヤル』でソーに救われたハルクだった。

ソーはこのとき「運命の意志」に導かれるのではなく仲間たちに必要とされることで、行動を開始する。こうしてソーも、ヒーローたち同士のグループセラピー、もといタイム泥棒作戦に参加する。

 

そしてソーは過去にて。死んでしまったアズガルドの王妃、母親フリッガと対面し「あるべき姿ではなく、ありのままの姿」を受け入れるようにアドバイスを受ける。

ここで言う「あるべき姿」は、父親オーディンや「運命の意志」が求めた物語の主人公の役割である。ソーはこの言葉を受け、今まで言えなかったことを吐露する。

「ありのままの姿」のソーが母フリッガに吐露したのは「サノスの首を切り落としたことの無意味さ」である。死んでしまった母フリッガとの会話の中で、ソーは、「あるべき姿」の「物語」の主人公を演じたことを悔いる自分自身を再発見するのだった。

 

ソーは「あるべき姿」ではなく、「ありのままの姿」で、もう一度武器を手にする。手にするのは「王の武器」ストームブレイカーではない。

高潔な魂の持ち主にしか扱うことができず、それに値しないものは持ち上げることも動かすこともできない。そんな持ち主を選ぶ意志を持つ鎚ムジョルニア。

 

使い手を選ぶムジョルニアに認められたことで、ソーは「おれはまだやれる」と確信する。このときの武器がストームブレイカーでなくムジョルニアであることは大きな意味を持つ。つまりこのときソーは「運命の意志」が用意した「あるべき姿」アベンジャーズ最強の(ストームブレイカーを持つ)自分ではなく、必要としてくれる仲間たち(ムジョルニアを含む)との関係性の中の「ありのままの姿」を肯定したのである。

 

サノスの首の行方

ソーは「サノスの首を切り落としたことの無意味さ」を悟った。しかし、いくら悟ろうとも、ソーは実際にサノスの首を切り落としているのである。覆水盆に返らず。この事実は変えることはできない。そしてさらに言えば斬首の瞬間は、ばっちり映像として記録されている。

 

タイム泥棒作戦に参加したサノスの娘ネビュラ。彼女はサノスによって改造されたサイボーグだ。彼女が見た映像、音声はすべて記録されている。

ソーがサノスの首を切り落とす瞬間、ネビュラはヒーローたちの一員として現場にいた。だからその一部始終は記録されている。

 

タイム泥棒作戦に参加し、過去へ行ったネビュラの記録は、タイムトラベル先、サノスの元にいた過去のネビュラと同期してしまう。完全に予想外の事態。タイム泥棒の計画がサノスに露見してしまうのである。こうして「ソーがサノスの首を切り落とした」記録は、過去のサノスに届いてしまう。

 

 

サノスは、未来の自分の首が切り落とされる姿を目撃する。彼は表向きは「おのれの意志」が貫かれたことを喜ぶ。しかしどこか釈然としないものがあったはずだ。なぜなら、このときサノスとソーの間で、時空を超えた意図しないコミュニケーションが成立しているのだから。サノスは、「王の武器」ストームブレイカーで「切り落とされたおのれの首」を見て、ソーを含めたアベンジャーズたちに、面子を潰されたと感じたに違いない。

 

このときサノスは無意識に『アベンジャーズ/インフィニティウォー』のソーと同じ過ちの道を走り出す。そう「運命の意志」、体裁の物語に自らを委ねてしまうのだ。

 

「運命の意志」の敗北

アベンジャーズ/エンドゲーム』の最終決戦、『アベンジャーズ/インフィニティウォー』で自らの胸に「王の武器」ストームブレイカーを突きつけたソーに対しての意趣返しのように、サノスはソーの胸に「王の武器」ストームブレイカーを突きつける。まさに、このサノスこそ「運命の意志に選ばれた存在」だと示さんばかりに。

しかし相対するソーはもう「運命の意志に選ばれた存在」に拘っていない。アイアンマンと協力して技を繰り出したり、ムジョルニアをキャップに貸したりする。その後も、よく観るとソーは、サノスにインフィニティ・ガントレッドを使わせない戦い方をしている。もうそこには力を誇示する戦い方は存在しない。

アベンジャーズ/インフィニティウォー』『アベンジャーズ/エンドゲーム』この二つの映画の最終決戦におけるサノスとソーの立ち位置は完全に逆転する。

そして、敗北を喫するのは、どちらも「運命の意志に選ばれた存在」にこだわった方、男の歴史が紡いできた「体裁」の物語に縋った存在なのである。

『アベンジャーズ/エンドゲーム』は男の体裁が敗北する物語である(前編)



アベンジャーズ/エンドゲーム』についての批評を書こうと思ったのだが、考えれば考えるほどアベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』をちゃんと語る必要性がある気がして来た。そもそも『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』はあんまりまともに語られている気がしない。なので先に前編として『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』について論じることにした。

 

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アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』とは?

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』は、「運命の意志」(ご都合主義)に愛されたソーが、「おのれの意志」を貫いたサノスに完膚なきまでに敗れる話だ。

監督のアンソニー・ルッソがコメンタリーで「最重要キャラクターである(ヴィラン側の)サノスを除けば、ソーこそが(ヒーロー側で)最も重要な存在」「もしラストシーンでストームブレーカーがサノスの頭部を破壊していれば、本作はソーの映画になっていただろう」と語る通り、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』はソーの映画になるはずだった。

 

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』はソーの敗北とともに始まる。親友のヘイムダルと弟ロキを殺され、アズガルドの民の半分を虐殺され、ソー自身も宇宙空間に放り出される。この瞬間ソーの「運命の意志」が導く復讐の物語は動き出していた。

 

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ソーの物語(運命の意志に愛された男)

マイティ・ソー』は北欧神話を踏まえた物語だ。ソーのモデルはトール神。彼は惑星アスガルドの王オーディンの息子(ソン)であり、特別なムジョルニア(武器)を使って戦うヒーローだ。神様が主人公の物語なだけあって、デウス・エクス・マキナ機械仕掛けから出てくる神)、ご都合主義的展開を良しとするシリーズである。

 

シリーズの第三作目『マイティ・ソー バトルロイヤル』で、ソーは全てを失う。父親のオーディンは死に、相棒の武器ムジョルニアは破壊される。アズガルドはラグナロクを迎え崩壊。すべてを失ったソーに最後に残ったのは、窮地に追い込まれても最後にはご都合主義で何とかしてしまう主人公力であった。

 

ご都合主義とは誰にとって都合が良いのか。まず当たり前だがソーにとって都合が良い。瞬間瞬間のソーの行動がどんなに無謀に思えても、最後は大円団。結果論では絶対に彼の行動は正しくなる。みんなソーが大好きでハッピー。

 

そしてなにより物語の語り手、あるいは聞き手にとって都合が良い。主人公に感情移入することで、さも自分ごとのように感動し、物語を楽しむことができる。

 

 

 物語の語り手や聞き手にとっての「都合の良い展開」を『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の登場人物たちの言葉に翻訳すると「運命の意志」「宇宙の意志」あたりになる。

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』でも、ソーの役割は主人公だ。「運命の意志」もとい「ご都合主義的展開」に導かれるままサノスを倒す力、「王の武器」ストームブレイカーを求める。

ストームブレイカーを求める道すがら、ソーは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のメンバーのアライグマ、ロケットにこんなことを言っている。

 

「俺は1500年生きてる。大勢の敵を殺してきた。だが俺を殺せたやつはいない。運命が俺を生かしたがっている。サノスも俺が殺した悪党どものリストに加わるだけ。運命の意志だ」

 

これまで物語の語り手&聞き手はソーに「都合の良い展開」を与えて来た。ソー自身も自分は運命の意志に愛された存在だと確信してしまっている。彼は運命の意志とそれに愛される自分自身を信じて、サノスを倒す新しい力を求める。

 

運命の意志の性別

「運命の意志」とやら、えーっとご都合主義的展開の共犯者たちは、どうやらソーの世界では男性のイメージのようだ。

マイティ・ソー ラグナロク』でソーが覚醒するとき、彼の脳裏には「ノルウェーの崖に佇む父オーディン」の映像がフラッシュバックする。『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』で、ヘイムダルがビフレスト(虹の橋)の力をおのれに宿し、ハルクを脱出させる前や、ソーがストームブレーカーを作るために、惑星ニベタニアのパワーを一身に受け、丸焦げになりながらも耐える前に「父たちよ(ご都合主義的な)力を授けよ」と祈る。サノスが部下たちや征服した星々に対して「父」として振る舞うことにも通じているような気がする。

サノスの物語(おのれの意志を貫く男)

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』はサノスの野望遂行の話でもある。サノスは、征服した星の人口の半分を虐殺する恐ろしいヴィランで、6つ集めると無限のパワーを手にすることができるインフィニティ・ストーンの力を使い、宇宙の人口の半分を消滅させることを企んでいる。

なぜサノスがこんな馬鹿げた野望を抱くようになったのかは、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の終盤、滅んでしまったサノスの故郷、惑星タイタンでサノスの口から語られる。

かつて在りし日の惑星タイタンで、サノスはこのままでは滅びる運命にある故郷を救うために奔走していた。しかしどうにも事態は深刻で、滅びの要因である資源不足を解決するためには、星の人口の半分を虐殺するしか方法はないという考えに至る。もちろん。そんな残酷な手段に賛成するものなどいない。サノスは周囲からまともに取り合われなくなる。またサノス自身も情に流されたこともあり、結局、惑星タイタンの半分の生命を虐殺という対策は実行されなかった。サノスも最後に奇跡が起こる「運命の意志」を信じたのかもしれない。しかし「ご都合主義的展開」用意されていなかった。「運命の意志」は残酷であった。サノスの懸念通り資源は枯渇。多くの人々が餓えに苦しみ、惑星タイタンは滅んでしまった。

 

この経験はサノスにある物語を与えた。サノスは「おのれの意志」を貫けなかったから、より小さな犠牲で済んだにも関わらず多くの犠牲を生んだと考えるようになってしまった。サノスは楽観主義的な「運命の意志」によって世界は良くなるなど考えない。なんなら「運命の意志」に従えば宇宙は滅ぶくらい考えたのかもしれない。

 

サノスは惑星ノーウェアで取っ捕まえたガモーラにこんなことを言う。

 

「簡単な計算だ。宇宙も資源も限りがある。命に歯止めをかけねばいずれ滅びる。修正が必要だ」ガモーラは宇宙が滅びる根拠を尋ねる。するとサノスはこう答える。

「わたしだけがわかるのだ。私だけが志を持って行動している。かつてはお前も同じ志を持っていた。私と一緒に戦っていた。娘よ」

 

このまま行くと、全宇宙は、惑星タイタンのように資源不足で滅亡するに違いない。宇宙の滅亡を防ぐため、サノスは「おのれの意志」を貫き、宇宙の人口の半分を消滅させることを選んだ。

 

ソーの独りよがり

最終決戦で、たしかにソーはインフィニティ・ストーンをすべて集めたサノスを圧倒した。ソーはサノスを力で圧倒することで、サノスに、自分こそが「運命の意志」に選ばれた必然の存在、とわからせたかったのかもしれない。

最終決戦のソーの戦い方に注目してほしい。彼だけが他のヒーローたちとは違う。他のヒーローは皆、サノスからインフィニティ・ストーンを守る戦いをしている。しかしソーだけは、インフィニティ・ガントレットのことなど気にも留めず、サノスを圧倒し屈服させようとしている。

ソーはサノスをさっさとぶっ殺せばいいものを文字通りマウントを取ってしまった非情になれなかった。いや惑星タイタンを救えなかったサノスと同じように情に流される「過ち」を犯してしまったのかもしれない。これが後の『アベンジャーズ/エンドゲーム』での、ガントレットをはめたサノスの腕とサノスの首を残酷に切り落とす展開に繋がる。なんにせよソーの取った行動は独りよがりで、彼の独りよがりのせいでサノスの野望は達成。多くの命が奪われたのだった。

つーか、サノスはそもそも「運命の意志」に選ばれるかどうかなど全く当てにしていない。I am inevitable。サノスの「おのれの意志」こそ必然であり、サノスこそ運命なのだから、結局ソーの独り相撲なのである。

 

サノスのご都合主義

ガモーラ「ずっと夢見て来た。いつか罰が下る日をその度に失望した。でもあんたは大勢を苦しめ虐殺し、それを慈悲という。宇宙があんたを裁いた。あんたがどんなに求めても宇宙が拒絶した。石が手に入らない。なぜだと思う。何も愛していないからよ」

サノス「……」

ガモーラ「まさか泣いてるの?」

レッドスカル「自分のためではない」

ガモーラ「ウソよ。愛してもないのに」

サノス「私は一度運命を無視した。二度としない。たとえお前を失っても。すまない娘よ」

 

惑星ヴォーミル、ソウル・ストーンの祭壇を前にしてのサノスとガモーラ、レッドスカルの会話である。サノスが娘であるガモーラを心から愛していたことが発覚する重要なシーンだ。

 

サノスがガモーラを愛するのは、サノスにとってガモーラが「おのれの正しさ」の象徴であるからだ。ガモーラの故郷の星も惑星タイタンと同じく滅びる運命の星であった。もし、サノスの虐殺がなければ、ガモーラは飢えて死んでいたのである。サノスは自分の人生を肯定する都合の良い存在としてガモーラを愛し、自分の考えを押し付けている。要は宇宙規模のモラルハラスメントである。

 

ガモーラがサノスに投げ掛けるセリフに「でもあんたは大勢を苦しめ虐殺し、それを慈悲という」というものがある。

ガモーラのこのセリフはサノスの「おのれの意志」を貫く物語の問題を明確に指摘している。たしかに「おのれの意志」を貫くために全てを捨てて乗り越えたサノスは尊敬に値するかもしれない。しかし、サノスの野望遂行は、ガモーラの指摘通り、サノスにとって都合の良い解釈に塗れている。彼は自分の物語に酔っているだけということを露呈させる非常にクリティカルな指摘だ。当然サノスはスルーしている。都合の悪いことは耳に入らない。そういうところやぞ、である。

 

映画のラスト。ソウル・ストーンの中の世界で、サノスは幼いガモーラに、意志を貫いたことを報告する。サノスは幼いガモーラの向こうに、今まで犠牲になった命や惑星タイタンで助けられなかった同胞たちを見ている。ラストシーンの心安らかな顔を見る限り、サノスはソウル・ストーンの中で幼いガモーラに「おのれの意志」を貫く物語を肯定されたと感じているに違いない。

しかし本当にガモーラはサノスを肯定したのだろうか? ガモーラは、サノスが自分を愛しているとは露にも思っていなかった。サノスの愛は独りよがりなものであり、ガモーラに全く伝わっていなかった。

ソウル・ストーンの中でサノスが見た幼いガモーラもまた、サノス自身がおれは正しかったと納得するための、ご都合主義的存在なのではないか。

 

そして『アベンジャーズ/エンドゲーム』へ

アスガルドの民を守れなかったソー、惑星タイタンで小さな犠牲を払ってでも星の滅亡を防げなかったサノス。二人は、過去に犠牲になった人々の死に対して責任を取ろうと、今を必死に行動した。ソーは「運命の意志」が導く「おのれの意志」を信じ新しい武器を求める。サノスは「おのれの意志」こそが「運命の意志」になると信じ、宇宙のために虐殺を行い続けた。ソーとサノス。二人はヒーローとヴィランであり対の存在と言える。しかし、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』で描かれたソーとサノスは、「運命の意志」「おのれの意志」の違いはあれど、どちらも独りよがりな物語を紡いだという点では、同じ欠陥を抱えている。

 

ここまで書いて、やっと『アベンジャーズ/エンドゲーム』について論じる準備が整った。『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』が描いた独りよがりな二人の物語の続き『アベンジャーズ/エンドゲーム』はどんな物語だったのか。

その辺を続きの後編で論じていく。

 

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ジャンプの異端漫画「バクマン。」が、ジャンプ王道映画「バクマン。」なってた件(褒めてる)

あらすじ

優れた画力を持ちながら将来の展望もなく毎日を過ごしていた高校生の真城最高佐藤健)は、漫画原作家を志す高木秋人神木隆之介)から一緒に漫画家になろうと誘われる。当初は拒否していたものの声優志望のクラスメート亜豆美保への恋心をきっかけに、最高はプロの漫画家になることを決意。コンビを組んだ最高と秋人は週刊少年ジャンプ連載を目標に日々奮闘するが……。シネマトゥデイより〉

 

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■全20巻の漫画を120分に

 

今回の「バクマン。」の映画化にあたって一番大きな課題は何か。 

それはいかに全20巻の漫画を120分に纏めるのかという点である。 

 

同じジャンプ漫画原作である「るろうに剣心」は3部に別け、物理的に合計408分という時間を稼ぐという作戦に出た。 

 

結果、1部目で主要登場人物紹介、2部目で最強の敵、志々雄の登場、3部目でクライマックスと、3部作それぞれに「るろうに剣心」に必要な要素を分散することが出来、見事、原作ファンも満足できる作品として成功を収めることができた。 

 

今回の「バクマン。」はどうだろう。 

蓋を開けてみると驚いた。

原作「バクマン。」の大きな要素であった「恋愛漫画」としての要素がまるっとなくなっていた。 

 

高木秋人のフィアンセである見吉香耶は登場せず、平丸一也と中井巧朗が心を寄せる蒼樹紅は影もかたちもない。 

そして、何より、真城最高高木秋人、ふたりのペンネームが亜城木夢叶(亜豆と真城と高木の夢を叶える)ではないのだ。 

 

なんとういうことだ。大根監督は「バクマン。」という漫画を120分に纏めるために恋愛要素の一切をカットし、映画「バクマン。」を真城と高木が、友情、努力の果てに勝利を掴むジャンプの王道のストーリーに仕立て直したのだ。 

 

恋愛要素の一切をカットと言ったが、そう言うとウソになる。 

亜豆美保はいる。真城は亜豆美保に恋し、亜豆美保に夢中になり、亜豆美保を描き続ける。 

亜豆美保も真城を思い、彼の漫画がもしアニメ化し、亜豆がヒロインの声をあてたら結婚する、その約束は映画にも存在する。

 

原作といっしょだ。やったー。そうじゃないか恋愛要素あるじゃないか!

 

でも違う、これは原作で描かれた「異常なまでのピュアな純愛」とは違う。

二人の夢が叶うまで、結婚するまでは決して会わない、電話をするのも、よっぽどの事があったときだけ。

それとは全く違う。

 

あくまで映画の亜豆美保は、真城が漫画を描く原動力でしかなくなってしまっているのである。

 

 

この映画を観ていて一番の衝撃は真城が亜豆美保にフラれることだろう。

真城が一番辛いときに、亜豆美保は「先に行くから」と真城が描いた漫画のセリフを引用してフる。酷い話だ。そう、決して現実の亜豆美保は「待って」くれなかった。 

 

「待ってる」 

そう真城に最後に伝えたのはいったい誰だろうか。 

芸術ってそういうことだろう。ニュー・シネマ・パラダイスよろしく失うから人はものを創るのだ。 

 

映画版「バクマン。」のヒロイン亜豆美保は、真城が描く「ジャンプ」漫画の世界、虚構世界のミューズなのだ。

 

映画版で、真城の叔父である川口たろうは「おれの恋人はマンガや!!」を地でいく生き様を見せている。

この部分も原作から変更された部分である。

 

原作での川口たろうは、亜豆美保の母親との叶わなかった大恋愛を背負っている。

その叶わなかった大恋愛のリベンジを真城が受け継ぐのが漫画版「バクマン。」のひとつの軸である。

 

しかし、映画版では「恋愛要素」に方向転換を加えたため、川口たろうから真城へ受け継がれるものは、「おれの恋人はマンガや!!」精神、ジャンプへのリベンジに絞っている。この辺も抜かりない。

 

まとめるとこうだ。

 

映画版「バクマン。」は原作にあった「異常なまでのピュアな純愛」を、苦い青春映画のように改変した。

その青春の苦さが、友情、努力の果てに勝利に収めるジャンプ王道ストーリーの原動力のひとつに収斂された。

結果、語るべきものを絞りながら物語の密度を高め、さらに上映時間を大幅に短縮された。

 

これはすごい。漫画原作からの映画化の理想じゃないか。

 

■問題点:1

 

漫画原作から映画化への理想に思えた「バクマン。」にも問題点がある。

中盤、真城がトイレで倒れるシーン。

トイレで倒れる音を聞いた高木が「サイコー…?」と真城に声をかける。

 

このシーンで妙な違和感に私は襲われたのだ。

「あれ?今までサイコー、シュージンって呼び合ってたっけ?」

この後、真城も高木をシュージンと呼ぶようになる。

 

原作の「バクマン。」では真城最高をサイコー、高木秋人をシュージン、彼らの名前を音読し、あだ名として呼び合っている。確か1巻で高木がそうすることを提案するコマがある。

 

一方、映画では、そういうシーンはないのだ。

気になったので、もう一度観て確認したから間違いない。

 

もしかしたら、真城と高木の関係性があだ名で呼び合うほどに深まったことを表現しているのかもしれないが、いささかその流れがシームレスすぎやしないか。そもそも原作を知らないとサイコー、シュージンと言われても何のこっちゃわからないのではないだろうか。

 

だから私は思うのである。

 

真城最高をサイコー、高木秋人をシュージンと呼び合うことを決めるシーン、いりませんか?

と。

 

亜豆美保との大恋愛の方向転換の影響で、ふたりのペンネームが亜城木夢叶(亜豆と真城と高木の夢を叶える)でなくなったのだから、そのシーンこそが真城と高木の「ふたりでひとり」感を出す為にも重要シーンだと思うのだが。

 

なぜ、真城最高をサイコー、高木秋人をシュージンと呼び合うことを決めるシーンがないのか。

 

■問題点:2

 

亜豆美保は声優の仕事をするために、芸能活動を禁止している高校をやめた。

あっれれー、おかしいぞー、真城と高木も同じ高校だぞー。

 

そう、何で、亜豆美保は声優業で高校をやめなきゃいけないのに、真城と高木は漫画を高校に通いながら本名で書き続けているのか。つーか、授業中にネームきってんじゃん。

 

ちょっとここはご都合主義すぎるんじゃないんですかね。

 

■問題点:3

 

映画のラスト、これから彼らが描くであろうキャラクター達を黒板アートで表現する。

素晴らしい原作ファンサービスだ。 

しかし、それはどうだろうか。 

 

実はこの映画は観ている人に誤解を与えかねない部分がある。

この映画の中では、漫画を物理的に描く苦しみは描いているが、漫画を産む苦しみはそれほど描かれてない。

高木はわりとポンポン話を思いついている、ように見える。

 

もちろんこれは描くのに苦労するのに比べて、物語を思いつくのに苦労するのは絵的超地味という映画としての制約があるからである。

 

しかし、これはひとつ間違えれば、原作者軽視に捉えられかねない。物語やキャラクターを作るのって大変なんだぞ! 

 

そこに来て最後の黒板アートだ。 

高木と真城はポンポンと未来自らが描く作品を思いつき、黒板に描く。

 

いやいや、それはどうだろうか。

 

この黒板アートが先ほど述べた欠陥点が芋づる式に掘り起こしていく。

原作を読んでいると、彼らがいかに苦しんで、作品を生み出していたか知っているから、より腹が立つ。

 

最後の黒板アートはあくまで、次の「疑探偵TRAP」もしくは「PCP -完全犯罪党-」の一作を描くくらいでよかったんじゃないか。 

 

彼らの作品はまだまだこれから、彼らの次回作にご期待ください、でよかったと思うんだけど。

 

これ全部、この段階で描かれたら興ざめだよ。 

 

 

とまあ、問題点も確かにある。確かにあるけど、純粋に「ジャンプ式」青春映画として楽しいと思えたし、漫画を描くシーンや思いつくシーンは映像としてとてもアガったので、観に行く価値は間違いなくあります。 

 

劇場版「バクマン。」是非、お誘い合わせの上、映画館でご鑑賞ください。

 

 

不謹慎が現実を浸食する「ムカデ人間3」というアメリカ批評映画

このシリーズが偉いのは、常に前作と同じテイストにならないようにしていること、そして「ムカデ人間」のインパクトから脱却を計っている事だと思う。

 

1作目「ムカデ人間」はムカデ人間というビジュアルありきの映画だった。人間を一つの管として考え、肛門と口(食道)を繋げる。先頭の人間の排泄物が二番目の人間の食料となり、その排泄物が三番目の人間の食料となり…。

 

「今からあなたたちに起こる事を説明します」と、マッドサイエンティスト、ハイター博士が拘束されたムカデ人間の犠牲者にインフォームド・コンセントする。非常に悪趣味である。


考えただけでもおぞましい、この「ムカデ人間」というアイディア、発明こそが、肝の映画だった。

 

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問題作かつ傑作の2作目。

俺たちのマーティンの登場である。

彼は「ムカデ人間」に憧れて、「ムカデ人間」の真似をする模倣犯。前作である「ムカデ人間」のエンドロールを眺めるマーティンからはじまるというメタなはじまりとなっている。

 

マーティンにとっては現実は生きる価値のない鬱屈した場所で、唯一の逃げ場が趣味としての「ムカデ人間」である。

しかし、その唯一の逃げ場すら「社会悪」とされる。唯一の逃げ場すら奪われ、追いつめられていくマーティンに観ているものは感情移入する構造になっており、「ムカデ人間」を作ることが物語のカタルシスになっている。頭がおかしい。

 

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そして今回の3作目。またしても前作のラストからはじまり、また同じようにそれを眺めている人がいる。

アメリカのとある州のジョージ・ブッシュ刑務所の刑務所長、ビル・ボスと、その助手ドワイトだ。

刑務所長ビル・ボスはフルメタルジャケットハートマン軍曹を彷彿させる。彼は一作目の「ムカデ人間」でハイター博士を演じたディーター・ラーザー。罵詈雑言を流れるように吐く。

(ぶっちゃけ「ムカデ人間3」の罵詈雑言はテンポが悪いと思う。もうちょっと編集でなんとかならんかったんか…) 

 

そんな刑務所長に「ムカデ人間シリーズ」を見せている助手ドワイトを演じるのはマーティンを演じたローレンスRハーヴェイ。

 

ビル・ボスはジョージ・ブッシュ刑務所に収監されている犯罪者たちに手を焼いている。ネイティブアメリカン、黒人、日本人、中東の人、さまざまな人種、政治信条を持った人間たちが収監されている。


刑務所長は囚人たちをおとなしくさせるために、ネイティブアメリカンを熱湯で拷問にかけ、黒人の腕の骨をおり、中東の人を去勢する。ひどい!

 

しかし、どれほど頑張ろうとも、インテリを気取り、キューバ産のタバコを吸う州知事は、刑務所長を認めず、挙げ句の果てにはクビを切ろうとする。

 

もし、刑務所長が今の立場を、力を失えばどうなるか…ネイティブアメリカン、黒人、日本人、中東の人、さまざまな人種、政治信条を持った人間が、無力になった自分を襲ってくる、そうに違いない、襲われたときに自分が丸腰だったならば、必死の命乞いも虚しく、脇腹をさされ、その傷から腎臓をレイプされる。そうに違いない。恐ろしや、恐ろしや。

自分をバカにし、クビを切ろうとする共産主義者の州知事を納得させ、隙あらば自分を襲おうとする囚人たちを黙らせる、そんな一石二鳥な手段があるのだろうか…。


「この刑務所にいる犯罪者たちをおとなしくさせるいい方法があるんです」

悪魔が囁くようにドワイトは言う。


ムカデ人間」計画があるんです。そうはじめは聞く耳を持たなかったビル・ボスも、いつしかこの素晴らしい方法に…気づいてしまう。そうか、そうすれば全て解決。


積極的平和主義とはこのことを言うのだろうか…。ネイティブアメリカン、黒人、日本人、中東の人、さまざまな人種、政治信条を持った人間を、「惑星ソラリス」よろしく、ひとつの生命体「ムカデ人間」にしてしまうのである。

(ただし「ムカデ人間」を抽象化し過ぎた結果、もはや意味としての存在になってしまい、本来持っていたビジュアル的なおぞましさは、逆に薄れてしまっている、これは仕様がない気がするが…) 

ハクトウワシが空を自由に飛び回る下で、身動きを取れなくなったムカデが喘いでいる。
地獄だ。地獄なのだ。
ジョージ・ブッシュ刑務所で高らかに、ビル・ボスが雄叫びをあげる。ジョージ・ブッシュの頭の中で、ハクトウワシが空高く飛び回る。アメリカ、アメリカ。

 

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一作目では悪趣味なジャンル映画に過ぎなく、ずいぶん現実から遠い場所にいた「ムカデ人間」が、今作では2000年代アメリカ批評という形で、現実にずいぶん近づいた。

 

ムカデ人間3」が映し出されるスクリーンは、さながら「マルコヴィッチの穴」。

ジョージ・W・ブッシュの頭の中をのぞいてみよう、とトム・シックス監督はきっとこの映画を作り始めたのだろう。

 

2作目の主人公マーティンが、助手ドワイトと姿を変えて、ビル・ボスというアメリカの白人貧困層を象徴する存在に「ムカデ人間」を教える。ビル・ボスはネイティブアメリカン、黒人、日本人、中東の人、さまざまな人種、政治信条を持った人間たち、500人もの人間を「ムカデ人間」にする。これが何かの冗談で、映画の中の出来事ならば笑える。

 

しかし、実際にイラク戦争ではジョージ・W・ブッシュを支持した白人貧困層たちが「ムカデ人間」さながらの捕虜への虐待を繰り返してた現実がある。

 

アブグレイブ刑務所における捕虜虐待 - Wikipedia

 

映画の中で「ムカデ人間シリーズ」のトム・シックス監督としてトム・シックスが登場するが、彼はジョージ・ブッシュ刑務所で行われる残虐非道な虐待のあまりの酷さにショックを受け、ゲロを吐く。

 

「皆、ムカデ人間は残虐非道で、非倫理的だって言うけれども、現実にはもっと酷い事が行われているんだよ!」

 

白人貧困層たちはアメリカの産業が金融や情報産業に移り変わることで職を失った。職を失った彼らは職を求めて軍へと志願する。そんな彼らの一部がイラクで捕虜虐殺を行った。

捕虜虐殺を行った女性軍人、リンディ・イングランドは捕虜虐殺についてアメリカの電子新聞の取材でこう答えている。

 

「彼ら(収容者)は無実ではない。われわれを殺そうとしたのであり、謝罪は敵に謝るようなものだ」

 

これは映画の中のセリフではない、現実に2000年代に、アメリカで本当に言われた言葉なのだ。

ジョージ・ブッシュ刑務所で、高らかに雄叫びをあげたビル・ボスは実際に存在したのだ。

 

「マダム・イン・ニューヨーク」はデストピア映画である

「マダム・イン・ニューヨーク」というインド映画を観ました。

ローマの休日」フォーマットで話を展開させ、「忠臣蔵」カタルシスを与えていることで物語の面白さを保証しているのは上手いなと思いました(言っていることが意味不明だとツッコミを入れた人、あなたは正しい)。

 


映画『マダム・イン・ニューヨーク』予告編 - YouTube



物語の根底には世界各国の言語が英語化されていくことによって英語喋れる=優秀という価値観が勝手に形成されていく世の中への危惧が描かれており、その点が非常に興味深かったです。 

僕はこの「マダム・イン・ニューヨーク」はアメリカ都合の効率のために均一化(英語化)することへの危惧を描いたデストピア映画だと思うのです。


ここで描かれているのはインド社会ですが、日本でも全く同じ事です。今企業が求めている人材は「ぐーろーばるにかつやくできるじんざい(=英語が喋れる人材)」です。

政府はそれを教育に反映させるなど後押ししています。政府は企業の言いなりで、どんどん日本国株式会社化しているのです。今の日本が目指す未来はシンガポールという人もいますが、あそこ独裁政権やで。 

日本国株式会社になることでどのような弊害がでるのか。
英語を操る優秀な人材=今の国の中心にいる人たちがどんどん海外に出て行ってしまうというリスクが生じることだと思います。
沈みゆくタイタニック号で、指揮を執る船長をはじめとする従業員が真っ先に逃げれる状態というのが今の日本なのです。最終的に、沈みゆく日本には英語を操れない人間が残ります。

ブラック企業などが国によって是正されない今の雇用の方向性から考えると、政府や大企業の経営陣は一時期前の中国人のように低賃金で雇用することを是としている可能性があります。人件費の低い国を探し続けなくても、日本で低賃金で雇用できるのであれば、企業側にとってはよい事尽くめだからです。

なぜ若者は低賃金で雇われることを受け入れるのでしょうか。それは自信がないからです。就職活動で何社も何社も受けさせられ、自分は「ぐろーばるにかつやくできるじんざい」じゃないから駄目なんだと自信を奪うのです。それは今まさしく行われています。

というのはあくまで僕の(いろんな偉い人の言説や自分の経験を踏まえた)妄想なのですが…

「英語を喋れない」とバカにされるという「マダム・イン・ニューヨーク」で描かれる葛藤はインド社会ではシャレに鳴らない問題なのだと思います。
同じインド映画である「きっとうまくいく」で描かれた学歴主義からも安易に想像できます。
「マダム・イン・ニューヨーク」、社会風刺の効いた素晴らしい映画だと思います、オススメです。