チキチキ!火種だらけの映画評

映画のネタバレ記事が多いと思います。私の映画の趣味をやさしい人は“濃い”といいます。

『アベンジャーズ/エンドゲーム』は男の体裁が敗北する物語である(前編)



アベンジャーズ/エンドゲーム』についての批評を書こうと思ったのだが、考えれば考えるほどアベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』をちゃんと語る必要性がある気がして来た。そもそも『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』はあんまりまともに語られている気がしない。なので先に前編として『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』について論じることにした。

 

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アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』とは?

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』は、「運命の意志」(ご都合主義)に愛されたソーが、「おのれの意志」を貫いたサノスに完膚なきまでに敗れる話だ。

監督のアンソニー・ルッソがコメンタリーで「最重要キャラクターである(ヴィラン側の)サノスを除けば、ソーこそが(ヒーロー側で)最も重要な存在」「もしラストシーンでストームブレーカーがサノスの頭部を破壊していれば、本作はソーの映画になっていただろう」と語る通り、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』はソーの映画になるはずだった。

 

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』はソーの敗北とともに始まる。親友のヘイムダルと弟ロキを殺され、アズガルドの民の半分を虐殺され、ソー自身も宇宙空間に放り出される。この瞬間ソーの「運命の意志」が導く復讐の物語は動き出していた。

 

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ソーの物語(運命の意志に愛された男)

マイティ・ソー』は北欧神話を踏まえた物語だ。ソーのモデルはトール神。彼は惑星アスガルドの王オーディンの息子(ソン)であり、特別なムジョルニア(武器)を使って戦うヒーローだ。神様が主人公の物語なだけあって、デウス・エクス・マキナ機械仕掛けから出てくる神)、ご都合主義的展開を良しとするシリーズである。

 

シリーズの第三作目『マイティ・ソー バトルロイヤル』で、ソーは全てを失う。父親のオーディンは死に、相棒の武器ムジョルニアは破壊される。アズガルドはラグナロクを迎え崩壊。すべてを失ったソーに最後に残ったのは、窮地に追い込まれても最後にはご都合主義で何とかしてしまう主人公力であった。

 

ご都合主義とは誰にとって都合が良いのか。まず当たり前だがソーにとって都合が良い。瞬間瞬間のソーの行動がどんなに無謀に思えても、最後は大円団。結果論では絶対に彼の行動は正しくなる。みんなソーが大好きでハッピー。

 

そしてなにより物語の語り手、あるいは聞き手にとって都合が良い。主人公に感情移入することで、さも自分ごとのように感動し、物語を楽しむことができる。

 

 

 物語の語り手や聞き手にとっての「都合の良い展開」を『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の登場人物たちの言葉に翻訳すると「運命の意志」「宇宙の意志」あたりになる。

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』でも、ソーの役割は主人公だ。「運命の意志」もとい「ご都合主義的展開」に導かれるままサノスを倒す力、「王の武器」ストームブレイカーを求める。

ストームブレイカーを求める道すがら、ソーは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のメンバーのアライグマ、ロケットにこんなことを言っている。

 

「俺は1500年生きてる。大勢の敵を殺してきた。だが俺を殺せたやつはいない。運命が俺を生かしたがっている。サノスも俺が殺した悪党どものリストに加わるだけ。運命の意志だ」

 

これまで物語の語り手&聞き手はソーに「都合の良い展開」を与えて来た。ソー自身も自分は運命の意志に愛された存在だと確信してしまっている。彼は運命の意志とそれに愛される自分自身を信じて、サノスを倒す新しい力を求める。

 

運命の意志の性別

「運命の意志」とやら、えーっとご都合主義的展開の共犯者たちは、どうやらソーの世界では男性のイメージのようだ。

マイティ・ソー ラグナロク』でソーが覚醒するとき、彼の脳裏には「ノルウェーの崖に佇む父オーディン」の映像がフラッシュバックする。『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』で、ヘイムダルがビフレスト(虹の橋)の力をおのれに宿し、ハルクを脱出させる前や、ソーがストームブレーカーを作るために、惑星ニベタニアのパワーを一身に受け、丸焦げになりながらも耐える前に「父たちよ(ご都合主義的な)力を授けよ」と祈る。サノスが部下たちや征服した星々に対して「父」として振る舞うことにも通じているような気がする。

サノスの物語(おのれの意志を貫く男)

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』はサノスの野望遂行の話でもある。サノスは、征服した星の人口の半分を虐殺する恐ろしいヴィランで、6つ集めると無限のパワーを手にすることができるインフィニティ・ストーンの力を使い、宇宙の人口の半分を消滅させることを企んでいる。

なぜサノスがこんな馬鹿げた野望を抱くようになったのかは、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の終盤、滅んでしまったサノスの故郷、惑星タイタンでサノスの口から語られる。

かつて在りし日の惑星タイタンで、サノスはこのままでは滅びる運命にある故郷を救うために奔走していた。しかしどうにも事態は深刻で、滅びの要因である資源不足を解決するためには、星の人口の半分を虐殺するしか方法はないという考えに至る。もちろん。そんな残酷な手段に賛成するものなどいない。サノスは周囲からまともに取り合われなくなる。またサノス自身も情に流されたこともあり、結局、惑星タイタンの半分の生命を虐殺という対策は実行されなかった。サノスも最後に奇跡が起こる「運命の意志」を信じたのかもしれない。しかし「ご都合主義的展開」用意されていなかった。「運命の意志」は残酷であった。サノスの懸念通り資源は枯渇。多くの人々が餓えに苦しみ、惑星タイタンは滅んでしまった。

 

この経験はサノスにある物語を与えた。サノスは「おのれの意志」を貫けなかったから、より小さな犠牲で済んだにも関わらず多くの犠牲を生んだと考えるようになってしまった。サノスは楽観主義的な「運命の意志」によって世界は良くなるなど考えない。なんなら「運命の意志」に従えば宇宙は滅ぶくらい考えたのかもしれない。

 

サノスは惑星ノーウェアで取っ捕まえたガモーラにこんなことを言う。

 

「簡単な計算だ。宇宙も資源も限りがある。命に歯止めをかけねばいずれ滅びる。修正が必要だ」ガモーラは宇宙が滅びる根拠を尋ねる。するとサノスはこう答える。

「わたしだけがわかるのだ。私だけが志を持って行動している。かつてはお前も同じ志を持っていた。私と一緒に戦っていた。娘よ」

 

このまま行くと、全宇宙は、惑星タイタンのように資源不足で滅亡するに違いない。宇宙の滅亡を防ぐため、サノスは「おのれの意志」を貫き、宇宙の人口の半分を消滅させることを選んだ。

 

ソーの独りよがり

最終決戦で、たしかにソーはインフィニティ・ストーンをすべて集めたサノスを圧倒した。ソーはサノスを力で圧倒することで、サノスに、自分こそが「運命の意志」に選ばれた必然の存在、とわからせたかったのかもしれない。

最終決戦のソーの戦い方に注目してほしい。彼だけが他のヒーローたちとは違う。他のヒーローは皆、サノスからインフィニティ・ストーンを守る戦いをしている。しかしソーだけは、インフィニティ・ガントレットのことなど気にも留めず、サノスを圧倒し屈服させようとしている。

ソーはサノスをさっさとぶっ殺せばいいものを文字通りマウントを取ってしまった非情になれなかった。いや惑星タイタンを救えなかったサノスと同じように情に流される「過ち」を犯してしまったのかもしれない。これが後の『アベンジャーズ/エンドゲーム』での、ガントレットをはめたサノスの腕とサノスの首を残酷に切り落とす展開に繋がる。なんにせよソーの取った行動は独りよがりで、彼の独りよがりのせいでサノスの野望は達成。多くの命が奪われたのだった。

つーか、サノスはそもそも「運命の意志」に選ばれるかどうかなど全く当てにしていない。I am inevitable。サノスの「おのれの意志」こそ必然であり、サノスこそ運命なのだから、結局ソーの独り相撲なのである。

 

サノスのご都合主義

ガモーラ「ずっと夢見て来た。いつか罰が下る日をその度に失望した。でもあんたは大勢を苦しめ虐殺し、それを慈悲という。宇宙があんたを裁いた。あんたがどんなに求めても宇宙が拒絶した。石が手に入らない。なぜだと思う。何も愛していないからよ」

サノス「……」

ガモーラ「まさか泣いてるの?」

レッドスカル「自分のためではない」

ガモーラ「ウソよ。愛してもないのに」

サノス「私は一度運命を無視した。二度としない。たとえお前を失っても。すまない娘よ」

 

惑星ヴォーミル、ソウル・ストーンの祭壇を前にしてのサノスとガモーラ、レッドスカルの会話である。サノスが娘であるガモーラを心から愛していたことが発覚する重要なシーンだ。

 

サノスがガモーラを愛するのは、サノスにとってガモーラが「おのれの正しさ」の象徴であるからだ。ガモーラの故郷の星も惑星タイタンと同じく滅びる運命の星であった。もし、サノスの虐殺がなければ、ガモーラは飢えて死んでいたのである。サノスは自分の人生を肯定する都合の良い存在としてガモーラを愛し、自分の考えを押し付けている。要は宇宙規模のモラルハラスメントである。

 

ガモーラがサノスに投げ掛けるセリフに「でもあんたは大勢を苦しめ虐殺し、それを慈悲という」というものがある。

ガモーラのこのセリフはサノスの「おのれの意志」を貫く物語の問題を明確に指摘している。たしかに「おのれの意志」を貫くために全てを捨てて乗り越えたサノスは尊敬に値するかもしれない。しかし、サノスの野望遂行は、ガモーラの指摘通り、サノスにとって都合の良い解釈に塗れている。彼は自分の物語に酔っているだけということを露呈させる非常にクリティカルな指摘だ。当然サノスはスルーしている。都合の悪いことは耳に入らない。そういうところやぞ、である。

 

映画のラスト。ソウル・ストーンの中の世界で、サノスは幼いガモーラに、意志を貫いたことを報告する。サノスは幼いガモーラの向こうに、今まで犠牲になった命や惑星タイタンで助けられなかった同胞たちを見ている。ラストシーンの心安らかな顔を見る限り、サノスはソウル・ストーンの中で幼いガモーラに「おのれの意志」を貫く物語を肯定されたと感じているに違いない。

しかし本当にガモーラはサノスを肯定したのだろうか? ガモーラは、サノスが自分を愛しているとは露にも思っていなかった。サノスの愛は独りよがりなものであり、ガモーラに全く伝わっていなかった。

ソウル・ストーンの中でサノスが見た幼いガモーラもまた、サノス自身がおれは正しかったと納得するための、ご都合主義的存在なのではないか。

 

そして『アベンジャーズ/エンドゲーム』へ

アスガルドの民を守れなかったソー、惑星タイタンで小さな犠牲を払ってでも星の滅亡を防げなかったサノス。二人は、過去に犠牲になった人々の死に対して責任を取ろうと、今を必死に行動した。ソーは「運命の意志」が導く「おのれの意志」を信じ新しい武器を求める。サノスは「おのれの意志」こそが「運命の意志」になると信じ、宇宙のために虐殺を行い続けた。ソーとサノス。二人はヒーローとヴィランであり対の存在と言える。しかし、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』で描かれたソーとサノスは、「運命の意志」「おのれの意志」の違いはあれど、どちらも独りよがりな物語を紡いだという点では、同じ欠陥を抱えている。

 

ここまで書いて、やっと『アベンジャーズ/エンドゲーム』について論じる準備が整った。『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』が描いた独りよがりな二人の物語の続き『アベンジャーズ/エンドゲーム』はどんな物語だったのか。

その辺を続きの後編で論じていく。

 

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