チキチキ!火種だらけの映画評

映画のネタバレ記事が多いと思います。私の映画の趣味をやさしい人は“濃い”といいます。

韓国映画がヤバイ「高地戦」は社畜こそ観るべき映画!

「高地戦」を観ました。
プライベートライアンを超えるかもしれない、歴史に残る戦争映画です。
この映画は「最前線で戦う兵士という“仕事”について、カン・ウンヒョ中尉の主観を通じて描かれる観察映画」といってもいいのではないかと思います。


映画『高地戦』予告編
私はこの高地戦が、つい最近まで、自分の身近に起こっていた出来事のように思えて仕方ありませんでした。といいますのも、先日まで務めていた会社 (営業系)で起こっている日常がその場で展開されていたからです。もちろん人は死にませんし、殺しもしません。しかし、自分が生き残るために、誰かに犠牲 を強いるという行為は日常的に行なわれていました。


また営業系の会社の社員は企業の最前線、いわば高地戦で戦っている企業戦士です。普段何もしないくせに、たまに口を出してはおかしなことをいう上 司を撃ち殺したくなることもありますし、「結局、俺達がお前のミスの面倒見るのかよ、俺たちの言う通りやってりゃ、何にも問題なかったじゃねぇか」と渋々 尻拭いにも行きます。

売り上げを上げるために来月から3ヶ月の週6で全員出勤(給料は変わらないよ)!という俺達を殺す気か!という経営判断も下されま す。国の軍隊と企業と規模は違えど、人の作る組織の中で起こる出来事はあまり変わらないのだなと、妙な「社畜あるある」を感じながらこの映画を鑑賞してい ました。


この映画は「自分を含めた仲間が助かるために、敵の命、さらには仲間の命を奪う選択をさせる環境が、戦争だ!」ということをヒシヒシと感じさせら れる映画でいたが、もしこの“戦争だ!”の部分が、“ブラック企業だ(営業系)!”さらには大きい意味で“仕事だ!”に変わっていても違和感がなく思えま す。

パンフレットの中で、チャン・フン監督は「エロック高地は実在の場所ではありません。ワニ中隊という部隊も存在しません。歴史的な事実からモチーフを 得ましたが、物語は映画的な想像力で作っています」と言っています。

つまり、「桐島、部活やめるってよ」での学校が、我々の暮らす世界のメタファーである 同じように、この「高地戦」での戦場は、我々の世界(職場)のメタファーなのです。だからこそ、観るものは旋律を覚え、そのおぞましい映像に恐怖します。 「俺達がやってる仕事の行き着く先ってこういう世界なんじゃないか」と(ブラック企業に勤める男談)。


“営業マン”特に“できる営業マン”は非常に合理的です。合理的ということはどういうことかというと、無駄がないということです。“売り上げ達 成”という目的のためにブラック企業ともなれば手段は選びません(正確には選ばざるえない)。

私が回線の訪問販売のバイトをしているときに見た高齢者の一 人住まいは衝撃でした。地上デジタルテレビを観るためのアンテナ工事と同時に、インターネット回線でテレビ観るサービスもついている。高齢者が何もわから ないことをいい事に、“売り上げ目標達成”のために合理的に売り上げを上げる方法を実施しているのです。しかし、回線を売る他者の営業マン話を聞いたところ彼らにも言い分がありました。

「売らなければノルマに足りない分を自腹で埋めなけらばならない」というものです。彼らは生き残るために、人を騙すギリギ リで営業するという選択を迫られたのです。そうして、そういう会社に勤める“営業マン”は、「売り上げ目標を達成するためならば、人の屍に立つのもいとわ ない」と思うようになります。何かその過程が戦争の中で、戦闘マシンとなっていく過程と同じなんじゃないのかと思えました。


“兵士という仕事”から一歩でも離れれば、命の取り合いをした敵のお願いも聞くことが出来ます。御礼として酒をもらうことも出来ます。戦争に勝つ ための合理性から離れ、人間であれるのです。

しかし、それすらも、上層部からみれば、唯の裏切りでしかない無意味な行動。上層部が「無意味な行動だ、裏切 りだ」と思うのは、“仕事の目的を達成するマシン”を求めるものにとっては、人間らしい行動をされると都合が悪いという心理が働いているのかもしれませ ん。兵士がマシンなら、罪悪感がなくて済むから。それが、社員教育などを通じて、会社の色に染め、社畜を創り上げる経営者の心理と同じなんじゃないのかと 思ってしまいました。


ここまで書いてきたことからわかるように、この映画は反戦争映画というものではなくて、“兵士という仕事、その置かれる環境を描いた映画”であ り、それは“仕事を達成するためのマシン”である人たちの話であると断言します。だから、観た多くの人に共感を得るのだと思います。