イラン映画を観よう。「別離」から観るイスラム国家イランの住み辛さ。
2011年度アカデミー外国語映画賞受賞作品。イラン映画。反政府的な映画を作ると即逮捕のイラン。
故に「別離」で描かれたようなテーマを扱う場合「反政 府的なこと、反イスラム的なことを言わないよう(政府にも文句を付けられないよう)、観ているものに反政府的、反イスラムと思われても仕様がないことを伝 える」という離れ業を求められる。
それにきちんと答え、さらに映画としても面白いという一口で二度美味しい映画になっております。
<あらすじ>
イランに住むナデルとシミンは14年来の夫婦だ。この夫婦は離婚の淵に立たされている。シミンは夫と娘と共に外国で生活したい。
娘の将来を考える とイランを出るのが正しい選択だと思っているからだ。
イランは女性差別も厳しいし、イスラムの厳しい規律もある。夫婦共に同じ考えだったが、問題が起こっ た。夫ナデルの父がアルツハイマーで介護なしに生活できなくなったのだ。協議離婚が認められていない(どちらかが一方的に悪い場合は離婚できます)イラン では、離婚してシミンと娘だけがイランを出ることも認められない。
どうしようも出来ないシミルは家を出て、自らの実家に身を寄せた。
シミルが家を出て、父を介護するものがいなくなったので、ナデルは若くて貧しい敬虔なイスラム信者のラジエーを雇った。
彼女は無職の夫に秘密にし てこの職についていた。結婚した妻は夫以外の人間に肌を見せてはいけないというイスラムの教えからわかるよう、夫婦間の絆(束縛)が強いからだ。
ある日、 ナデルが家に帰ると、アルツハイマーの父がベッドに縛り付けられ、彼女は家を空けていた。職場放棄だ。さらに、お金も盗まれている。
いけしゃあしゃあと 帰ってきた彼女を咎めるナデルは、決して職場放棄の理由を話さない彼女に腹を立て、クビを言い渡す。
挙句の果てには「お金を私が盗んだなんて決め付けるの は失礼だ、謝れ。」と謝るまで、家に居座る姿勢をみせる。
彼は彼女を家から押し出した。外から悲鳴が聞こえた。彼女が階段から落ちたのだ。
ラジエーは流産した。
彼女は妊娠したのだ。イランでは4ヶ月以上の胎児は人間であり、その胎児を殺せば殺人だ。
ナデルの裁判が始まった。
<ミステリー映画、夫婦倦怠映画、そしてその下に隠された、開かれたイスラム世界の生き辛さ>
何故、ラジエーはアルツハイマーの父を縛り付けたのか。そして何処に行っていたのか。という話を軸に話は二転三転する。
裁判は真実を明らかにする場だ。
しかし彼らは真実を言わない。自分が不利になることは決して言わない。表向きは強がっているが、実際は不安でたまらない。それを悟られないよう虚勢を張る。周りから人がいなくなる悪循環だ。
プライドと疑心暗鬼がジャマをし、別居中の妻の助けを借りようとしないナデル。
彼は妻が自分の弱みに付け込んで、離婚を企んでいるのだと思ってい る。
真実を知ることを娘には求め、自分は真実ではなく罰を受けない実を取り、そのダブルスタンダードで娘をつき付ける。
この行動が、何か政府が国民を弾圧する姿勢にも 似てやしないかと思ってしまう。
示談というカタチで話が収まりそうになるたびに、お金を受け取ることが許されないなど、イスラムの規律が問題になる。
敬虔な信者にとってイスラム の規律を破ることは娘の代まで呪われるのと同義だ。
それを酷く恐れている。ルールって守ることが目的化していては、世話がないのだが、この世界では現実に 起こっていることだ。
<イスラムへの仮説、監督が言いたかったこと。>
あくまで仮説なので許容してください。
イスラム教は完璧だ。
しかしそこには、「もし世の中がイスラムというコミュニティだけだったら」という前提がつく。
でも現実にはそうではない。
キリスト教、仏教も、ヒンドゥー教も、ユ ダヤ教も天理教も、いろいろある。無神論者もいる。
イスラム教は生活の中にルールとして宗教を組み込んだ。
キリスト教のように生き方の根幹の部分を新約聖 書という物語に載せて語っているわけではない。
生活のルールが、法律が、イスラム教なのだ。
それを破ることは許されないことだ。解釈の余地がない。他の考 えを許容する遊びの部分がない。
ガッチガチなのだ。だから、排他的になって、盲目に生活しなければ、生きづらくなる。
この監督はそんなイランが嫌なのだろう。そんなガッチガチの世界で、自分の言いたいことも言えないのは辛い。
それを言うことすらも許されない。せめて表現者としてそれを僕ら観客に伝えたい。
こんなイランどうですか?と問うているんだろう。
その命がけで必死の姿勢に心打たれてしまった。