「LOOPER/ルーパー」は新しいSF映画への序章である。フルーチェも、相容れない要素を混ぜたことでできたんだ!という激励。
「ルーパー」を観ました。ルーパーと呼ばれる殺し屋(ジョセフ・ゴードン・レビット)が、30年後の未来からタイムトラベルしてきた自分(ブルース・ウィ リス)を殺そうとするお話でした。いろんな要素を取り込みすぎて、最初と最後で全く違う映画になっている不思議な映画でした。
ルーパーの詳しい設定はこちら(【頼まれてもないのに】複雑すぎる「LOOPER/ルーパー」の設定を勝手に纏めてみた。【勝手に宣伝】)
突然ですが紅茶の種類に「ミルクレモンティ」は存在しません。何故なら紅茶にミルクとレモンを入れると、ミルクのたんぱく質がレモンの酸と合わさってしまい、固まって分離、結果、沈殿物が発生するからです。
カクテルを作るときみたいにフロートして層を作って混ざらないようにすれば何とかなるかもしれないけど、そうしたとしても、飲み始めと、飲み終わりでは明らかに味が違う飲み物になってしまいます。
まさに「ルーパー」はそんな映画で、ドライな近未来SFで始まったと思ったら、急にウェットなヒューマンドラマになる。前半はすっきりしたレモンティで、後半が甘ったるいミルクティみたいな。そんな「ミルクレモンティ」のような映画が「ルーパー」なのです。
この文章を書く前、いろいろ考えて、僕の頭の中にミルクティとレモンティを一緒にしないで、別々で注文したらよかったんじゃないのか…。という懸念がわきました。
スターウォーズみたく3部作で展開をすることで、ミルクティ、レモンティと別々に味を楽しめたはずだ。結局はフルーツの酸味と、乳製品は相容れないものだったのだ。と。
…。
皆さん、忘れてはいませんか?
「フルーチェ」の存在を。ミルクのたんぱく質と、フルーツの酸味によって、生まれたケミストリー「TORO☆MI」を。
ご存知ですか?
「フルーチェ」の「TORO☆MI」は「ミルクレモンティ」を作ったときに出る、あの沈殿物と同じものだということを。
そう、あの沈殿物、あの「TORO☆MI」が「ルーパー」の魅力なのです。
…。
「おいちょっと待て、急にレモンティが、フルーツに変わっているぞ!」というご指摘ありがとうございます。
皆さん。僕がわざわざ「『ルーパー』の レモンティがタダの液体ではなかった、タイムトラベル要素が、近未来描写がタダの今までの踏襲ではなかった」と言うために、フルーツと言い換えたことをお 気づきではない?
そうルーパーは、従来の近未来SF(レモンティ)とは、全く違う方向性の近未来描写、タイムトラベル描写なのです。まず、レモンティが完全加工さ れていなくて、フルーツのままであるという部分の説明から。
このルーパーの舞台である2044年は人類が考えるのをやめてしまった世界、新たな発明をするのをやめてし まった世界なのです。だから、登場する銃や車は過去の技術の使いまわしや、継接ぎでできています。
考えるのをやめてしまっていることは、何かの偶然でタ イムマシンが開発される2074年も共通で、完全に規制だらけの社会です。タイムマシンも危険だからということで、開発後、研究は一切されていません。
こ の世界ではタイムマシンは犯罪組織がその流用品を、危険を顧みずに、(人を殺すと直ぐばれるという)未来の厳しい規制から逃れるために使っているだけとい う設定になっています。
また、タイムトラベル描写もかなり面白い描写で、前触れも何もなく急に人間が現れるという絵的に新鮮だけど、リアルな描写で、本当にタイムトラベルがあれば、こうなるのかと納得させられる描写でした。
レモンティを加工する前のフルーツのまま使用するように、近未来描写もタイムマシンも、今の世の中の延長上、固体(フルーツ)を液体(レモンティ)にするような劇的な進化は一切ない世の中なのです。
これがこの映画が持つ魅力に繋がっています。
今までの「ブレードランナー」や「ターミネーター」ではレモンティだった近未来描写は、「ルーパー」でフルーツになったということがお解かりに なったと思います。
では、このフルーツ(特有の近未来描写)をミルクにぶち込んだことで生まれた「TORO☆MI」とはいったい何なのか。それを説明して いきたいと思います。
この映画はもちろん全てがフルーチェではないということはわかっていますよね。
ルーパーは、あくまで「ミルクレモンティ」であり、フロート技術で重ねられたレモンティ (フルーツ)とミルクティの中間地点がフルーテェになっています。
ルーパーの中間地点、ドライな近未来SFとウェットなヒューマンドラマの中間地点は、未来から来た自分(ブルース・ウィリス)と現在の自分(ジョセフ・ゴー ドン・レビット)が対面する場面です。
この二人が、同一人物のはずなのに、全く相容れない存在であるという部分がフルーチェ的新しさ「TORO☆MI」なの です。
ブルース・ウィリスとジョセフ・ゴードン・レビットを同一人物であると、特殊メイクと演技、そしてモンタージュ描写で端的に描かれた回想で段々はハ ゲていくという部分で、暴力的な説得力を持たせているのですが、明らかに別人なんです。
技術の限界という話ではありません。ブルース・ウィリスのジョーは自分の奥さんへの想いが彼の存在意義を定め、ジョセフ・ゴードン・レビットのジョーとは全くの別人になってしまっているのです。
彼ら二人は別人なんです。
にもかかわらず、過去と未来の自分は全くの別人なのに、過去 と未来の自分が逃れられない因果で繋がっています。未来の自分は過去に縛られてしまうというその普遍的な理不尽さを観ている人は感じ取るのです。
これが「TORO☆MI」です。「TORO☆MI」があるからこ そ、ヒューマンドラマパート(ミルク)の過去と未来の主人公それぞれの行動に深みが増します。
そして、ジョセフ・ゴードン・レビットのジョー、現代のジョーも自分の存在意義を掴みます。存在しないことが存在意義というのも皮肉なものですが、でも、僕たちは「TORO☆MI」を知っているからこの最後の決断に感動できるのです。
たぶん僕が一切何を要っているのかわからないと思いますけど、観ていただいて、ルーパーの中にあるフルーチェ的「TORO☆MI」を「ミルクレモンティ」の新しい味を感じていただければと思います。
そして、このルーパーをヒントに、完璧なフルーチェのように整った映画が生まれることを切に願います。